福島正則の改易
元和五年(一六一九年)、安芸広島藩の福島正則が改易になる。正則は台風による水害で破壊された広島城を修繕したが、それが無断修繕であり、武家諸法度違反とされた。武家諸法度は城郭の改修には事前の許可を必要としていた。正則は二ヶ月前から届けを出していたが、幕府からは正式な許可が出ていなかった。正則は、雨漏りする部分を止むを得ず修繕しただけと抗弁した。
広島城は毛利家の居城であったが、関ヶ原の合戦の論功行賞で正則が安芸国と備後国の太守として入封した。広島城は太田川の河口に広がるデルタ(三角州)の上に築かれている。堀や川で瀬戸内海とつながっていた。正則は内堀・中堀・外堀という三重の堀に囲まれた広大な城郭に改修した。家康は慶長一四年(一六〇九年)に広島城が過剰と指摘する。正則は西の毛利の抑えと正当化した。
福島正則の改易は有力外様大名を潰したい江戸幕府の難癖という面があった。正則がキリシタンに融和的であることも一因になった。慶長一〇年(一六〇五年)には広島で約百名がキリスト教の洗礼を受けた。浅野氏になってからの広島藩になるが、寛永一一年(一六三四年)二月一日に林田太兵衛がキリスト教徒として処刑された。林田というキリスト教徒では慶長一八年(一六一三年)に有馬家家臣のレオ林田助右衛門が棄教を拒否して火刑にされた。
江戸幕府内の権力闘争も影響している。正則が届け出た相手は、本多正純であった。正則は正純の反応から正式な許可が出なくても問題ないと判断したが、正純は権力を失いつつあった。正純を信頼し過ぎた失敗であった。後に正純も宇都宮城の無断修築などを理由に改易されたことは皮肉である。
徳川秀忠は広島城の本丸以外(二の丸、三の丸、惣構え)を全て破却することで、正則を赦免する方針とした。これを受けて正則は、本丸の壁を取り、土や石を取り除いた。これに対して秀忠は破却が不十分として、正則を改易した。改易時に正則は江戸に留め置かれた。これは正則が領地で家臣と反乱を起こすことを防ぐためであった。
次の課題は誰が広島城を受け取るかである。
「誰が広島城を受け取るのだ?」
「この場にいる方々の中から選ばれるか、あるいは諸大名から推挙して頂くことになりましょう」
「ならば、まずは建部殿であろう」
「えっ!?」
「建部殿は大坂の陣で活躍した名将中の名将ではないか」
「そ、そんな! 某などまだまだ若輩者にて……」
「謙遜されることはない」
政長は幕府から広島城受け取りを命じられた。
正則の叔父の福島丹波守治重が広島城の城代に任じられていた。治重は家中をまとめて籠城の準備を行っていた。政長は治重に城明け渡しを申し入れたが、治重に突っぱねられた。
「どうして改易されなければならないのか、その理由を聞いていない。この城は主君より預けられた城であり、主君の墨付が無ければ明け渡すことはできない」
政長は眉間に深い縦じわを寄せて思案していたが、やがて意を決すると小姓を呼んだ。
「力八郎」
「はい」
「至急、江戸へ参れ」
「江戸ですか」
「そうだ」
「何をしに行くのです?」
「いいから行け」
殿の命令なので逆らうわけにはいかない。
力八郎は仕方なく馬を走らせた。
江戸の町に入ると、真っ先に力右衛門が出迎えてくれた。
「これは珍しいところで会われましたな」
「うむ、ちょっと頼みたいことがあるのだ」
「某にできることなら何でも申し付けてください」
「実はな……」
力八郎は事情を説明した。
「なるほど、それは困りましたね」
話を聞いた力右衛門が言った。
「何とかならぬものだろうか?」
「殿のお気持ちはよくわかりますが、こればかりはどうしようもないでしょう」
「そうであろうなぁ」
力八郎は腕組みをして考え込んだ。
「福島様から墨付をいただけば宜しいのではありませんか?」
「おお、そう言えばそうじゃ」
政長と治重のやり取りを伝え聞いた正則は感激して号泣し、間違いが起こらぬようにと急いで墨付を書いて使者に渡した。これによって広島城は平和裏に明け渡された。この時の作法は大名改易時の城受け渡しの前例となった。福島家の家臣達は城内をくまなく清掃し、ちり一つ、ほこり一つ残さなかった。城の調度をそのままにし、目録も書き残した。
福島正則改易後の安芸と備後には紀伊和歌山城主の浅野長晟が転封した。長晟と徳川家康の娘振姫との婚姻関係が重視された。




