明石城普請手伝
政長は元和四年(一六一八年)には明石城普請手伝を務めた。その前年の元和三年(一六一七年)に小笠原忠真が信濃松本藩主から明石藩主に移った。徳川秀忠は譜代大名・明石藩十万石の居城として明石城の築城を命令した。政長は普請奉行となり、築城費として銀一千貫が支給された。宮本武藏が城下町の町割図を作成した。
明石城は瀬戸内海を望む六甲山系の西端に位置する人丸山(人麿山)に築いた。本丸を中心に二の丸、東の丸(三の丸)、稲荷曲輪を設けた。本丸の四隅に三重櫓を築いた。天守台を造ったが、天守閣は築かなかった。
政長は天守閣が無用の長物になることを見越していた。城を守るならば外郭を強化すべきである。天守閣まで攻め込まれる事態になったら、末期的状態である。これは大坂夏の陣で丸裸になった大阪城の落城から明らかである。
日本では外郭(堀や石垣、櫓)の重要性は軽視されがちである。しかし、世界では洋の東西を問わず、城と言えば町を囲むものである。日本では総構の籠城戦は織田信長に反旗を翻した荒木村重の有岡城や後北条氏の小田原城くらいしか知られていない。有岡城も小田原城も織田や豊臣の大軍の前に籠城し続けたが、最後は明け渡した。
ここからは籠城戦は未来のないものと語られがちである。後の日本人には籠城戦と言えば兵糧攻めによる飢えのイメージがある。そこから籠城戦は後がない悲惨なものとの印象になる。しかし、有岡城も豊臣秀吉の小田原征伐時の小田原城もまだまだ兵糧は足りていた。総構の城は城郭内に田畑もあり、ある程度の再生産も可能であった。
有岡城も小田原城も敗因は未来がないという心理的な絶望であった。これは本当に絶望しなければならないことだろうか。攻め手も無限な存在ではなく、攻めあぐねれば撤退せざるを得ない。第二次ポエニ戦争で連戦連勝のハンニバルが遂にローマを落とせなかったように城壁は有効である。勿論、籠城でひきこもるだけでは未来がない。城から出て補給部隊を叩くことなどは必要である。
戦術論では後詰のない籠城は負け戦になると語られる。武田信玄の言葉「人は城、人は石垣、人は堀」は人間の大切さを説いたものであるが、籠城戦を軽視する文脈でも使われる。しかし、そこには籠城戦をされると厄介なために早く諦めさせたい権力者側のプロパガンダが入っているのではないか。現実に大坂冬の陣の講和で堀を埋めることで、大坂夏の陣で大阪城を滅ぼした。江戸幕府は一国一城令を出した。城郭は攻め手にとって厄介と考えていたことを示している。
また、日本で籠城戦が兵糧不足でもないのに失敗する要因として、世の中とつながっていないと存続できない日本人の集団主義的な弱さもあるだろう。新型コロナウイルス感染症ではSocial Distanceのためにステイホームが求められた。テレワークやオンライン授業のようにNew Normalな生活様式に変えていくとポジティブに捉えることができるものであるが、日本では外国以上に評判が悪い。
外郭は人民を守るという観点でも重要である。海外の城壁が市街地の外に作られたことは、都市の一般住民を守るためのものであることを示している。伝統的な日本史では、この点は軽視されてきた。しかし、建部光重が攻め手で戦った安濃津城の戦いは領民も籠城した総力戦であった。このような戦いも珍しくはなかった。
近代日本の軍隊が人民を守るものではなかったことは確かである。戦前の軍隊は天皇の軍隊であり、国民に「一億総玉砕」を強いるものであった。しかし、近代がそうだからと言って前近代も同じかは別個の問題である。近代の軍隊の在り方を正当化するために、前近代の人民を守る城という要素は意図的に捨象した歴史観に立っているだけかもしれない。
奇しくも二〇二一年の第一六六回直木賞受賞作の『塞王の楯』と『黒牢城』は共に人民を包含する籠城戦を描いた。『塞王の楯』は人民を守る盾としての城がメインテーマである。大津城の戦いには領民も籠城した。有岡城の戦いを描いた『黒牢城』では総構の有岡城に領民も籠城した。
明石城築城中に火事が起きた。火災の原因は不明であったが、納期遅れをごまかすためにわざと放火したという根も葉もない噂が流れた。
「何と、そのような噂が流れているのか」
「はい、殿、まことに不愉快なことです」
「全くだ! このような根も葉もない中傷を受けるとは……腹立たしくて仕方がない」
「殿、お怒りになるのはごもっともなれど、ここは堪えるしかありませぬぞ」
「分かっておるが……」
「殿、この度のことは、某が殿に代わって釈明致しますゆえ、どうか御心配なさらずに」
「うむ、頼んだぞ」
「承知仕った」




