参勤交代
林田藩は大名であり、幕府から参勤交代を義務付けられた。参勤交代は大名にとって大きな負担である。まず国元と江戸を往復する大名行列は大仕事である。荷駄の支度は出発の前日までゴタゴタと続く。藩主出発前の林田陣屋では小者が荷造りに走り回り、商人が出入りするなど騒がしい。
旅費は莫大な費用がかかる。そのため、林田藩では少しでも費用を節約するために、領内で生産された農作物を持参した。自家製の味噌や醤油を持ってくる者もいた。大名が乗る馬の世話をする者は、馬を清めるために川に入ったり、水を飲ませたりした。
林田藩の大名行列は大垣宿に宿泊した。大垣は岐阜の西側やや南側にある。岐阜は名古屋の北側やや西側にある。大垣は古来より美濃と近江を結ぶ重要拠点であった。大垣城は美濃国守護の土岐一族の宮川吉左衛門尉安定が天文四年(一五三五年)に創建したと伝えられている。戦国時代には斎藤道三と織田信秀の争奪戦が行われた。NHK大河ドラマ『麒麟がくる』でもナレーションで取り上げられた。関ヶ原の合戦では大垣城が西軍の拠点になった。
江戸時代の大垣は大垣藩の城下町に加え、美濃路の宿場町・大垣宿として栄えた。美濃路は東海道の宮宿と中山道の垂井宿を結ぶ脇街道である。本陣や脇本陣、問屋場、旅籠屋、商家などが軒を連ね、活気に溢れた。
大垣宿本陣は一五五八年から一五六九年の永禄年間に始まったとされる。永禄年間は永禄八年五月一九日(一五六五年六月一七日)の永禄の変が有名である。三好義継や松永久通らの軍勢が京都二条御所を襲撃し、室町幕府一三代将軍足利義輝が殺害された。NHK大河ドラマ『麒麟がくる』でも描かれた。
本陣跡は大垣市竹島町にある。本陣跡の説明文は以下のように書かれている。「本陣は、宿場のほぼ中央に位置し、お大名や宮家・公家・幕府役人などの貴人が利用した休泊施設である。大垣宿本陣は、永禄の頃沼波玄古秀実が竹島町を開き、はじめて本陣を創立したと伝えられる。以後、本陣役は、宝暦五年(一七五五年)には玉屋岡田藤兵衛が勤め、天保十四年(一八四三年)には、飯沼定九郎が問屋を兼ねて勤めた」
大垣宿は中山道を通り江戸に向かった朝鮮通信使も宿泊した。朝鮮通信使は朝鮮王朝が江戸幕府に派遣した外交使節であり、日韓の平和構築と文化交流の歴史として、貴重な記録が残っている。「朝鮮通信使に関する記録-17世紀~19世紀の日韓の平和構築と文化交流の歴史」は二〇一七年一〇月にユネスコ「世界の記憶」に登録された。ユネスコ「世界の記憶」は世界的に重要な記録物への認識を高め、保存やアクセスを促進することを目的とする。
大垣宿本陣跡を東に進むと大垣宿問屋場跡がある。大垣宿問屋場跡には大垣宿や美濃路の説明板が多数掲示されている。問屋場の説明文は以下の通り。「宿場において人馬の継立の業務を行った所が問屋場である。ここへ問屋役をはじめ、その助役の年寄、事務担当の帳付、その他、馬指や人馬指が詰めていた。大垣宿の問屋場は本町にあったが寛文の頃にここ竹島に移った。問屋役は飯沼家が本陣役と兼帯して勤めていた」
林田藩主は道中に通過した土地の特産品を土産に持ち帰った。藩主は持ち帰った土産を家臣や領民に振る舞った。藩主は江戸藩邸に到着したら、藩士達をねぎらった。藩主が家来をねぎらうことは、主君の権威を示すことにつながる。藩主は藩士を手厚く遇した。
参勤交代では江戸藩邸の維持も大きな負担である。藩の支出は国元よりも江戸藩邸の方が多くなることもあったほどである。国元と江戸藩邸では国元の方が人数は圧倒的に多い。とはいえ人数が多くても衣食住全ての面倒を藩がみる訳ではない。これに対して江戸藩邸では丸々かかる。江戸藩邸は藩主一族が住み、他藩や幕府との付き合いもある。国元の倍の支出になることもある。
江戸藩邸は上屋敷、中屋敷、下屋敷と三つ構える必要があった。上屋敷は藩主公邸である。中屋敷は藩主が休息目的で訪れる。下屋敷は江戸勤番藩士が詰めた。江戸藩邸は江戸家老が統括した。江戸家老は藩を代表して幕府や他藩と連絡や交渉を行う外交官的な性格を持っていた。
林田藩の江戸藩邸の上屋敷は外神田に置かれた。ここには上総久留里藩黒田上屋敷、下野黒羽藩大関家上屋敷、安房勝山藩酒井家上屋敷、播磨林田藩建部家上屋敷、信濃上田藩松平家上屋敷が並んでいた。そのために神田五軒町と呼ばれることになる。
中屋敷は本所、下屋敷は染井村に置かれた。ここには染井という名の泉があった。水はけが良かったことから植木屋が多く、桜の染井吉野はここで品種改良されて生まれた。明治七年に都営霊園「染井霊園」になった。染井霊園は、岡倉天心、二葉亭四迷、高村光太郎・智恵子など多くの著名人が眠っている。




