羽柴秀吉は播磨国を攻略したい
永正一五年(一五一八年)に備前守護代の浦上村宗が主君の赤松義村と対立し、居城である備前三石城に退去する。村氏は村宗の姪婿であり、村宗に同調して赤松氏から離反する。国氏も村氏に従った。しかし、松山城も窪山城も赤松義村に攻められて落城した。
その後も浦上村宗と赤松義村の抗争は続き、最後に村宗は義村を室山城に幽閉し、謀殺した。村宗は赤松の跡目に義村の嫡子才松丸(政村)を擁立し、その後見人となり、赤松家の実権を握った。しかし、政村との抗争が表面化し、享禄四年(一五三一年)の大物崩れで、政村の攻撃を受けて戦死した。
その後は宇野氏の勢力が伸び、長水城主・宇野政頼は四男の宗祐を本郷祐義の養子とし、松山城主とした。
織田信長は方面軍制度を作り、天下統一を進める。羽柴秀吉は毛利攻めの方面軍司令官を命じられた。最初の目標は播磨国である。播磨国はまだ毛利氏の領国になっておらず、小豪族がひしめいていた。秀吉は天正五年(一五七七年)から播磨攻略を始めた。
「播磨攻めの準備は整っておるか?」
「はい。万事滞りなく進めております」
「そうか。では、そろそろ出陣するとしよう」
「承知しました」
秀吉が播磨攻略を始めると大半の国人領主は戦うことなく秀吉に従った。このため、播磨平定はあっさり成功するかに見えた。ところが、秀吉が反逆者を磔にするという残虐な見せしめをしたことが反発を生んだ。秀吉は見せしめによって恐怖を与えて支配を徹底させようとしたが、播磨の国人達の怒りに火をつけた。
信長の配下に加わっていた播磨三木城主の別所長治が天正六年(一五七八年)に反旗を翻した。毛利輝元や足利義昭の熱心な誘いがあったことが事実であるが、中央からの支配を嫌う国人の独立精神が大きい。播磨人は鉄血の反骨精神を持っていた。三木氏が反乱を起こすと播磨国内の国人衆も一斉に反旗を翻した。宇野政頼も本郷宗祐も秀吉に抵抗した。秀吉は西からは毛利の大軍、播磨国内は国人衆の反抗と一転して窮地に陥った。
さらに摂津を任されていた荒木村重が信長に謀反を起こした。村重の謀反の理由は明確ではない。村重は新参の家臣から織田家の重臣になっており、報酬面では報いられていた。信長の残虐性や終わることを知らない拡張主義への嫌気が謀反の理由になる。
信長は銭の力を知り、銭の力を利用して勢力を拡大した。しかし、無駄に金を使って金を回すことが経済発展という昭和的な発想では、いずれ高転びする。これは安国寺恵瓊のプロパガンダであったが、堅実な村重には深く刺さったのだろう。




