赤松正則は播磨守護を取り戻したい
赤松満祐は嘉吉元年(一四四一年)に嘉吉の乱を起こし、将軍足利義教を殺害する。満祐は播磨国の本拠地に戻って抗戦した。山名宗全の軍勢が攻めてきた。林田郷の空木城には小野七郎右衛門が入って山名勢に抵抗した。最終的に山名勢に鎮圧され、赤松氏は断絶し、山名氏が播磨・備前・美作守護になった。
赤松氏の遺臣は長禄元年(一四五七年)の長禄の変で後南朝から神爾を奪った。その功績で長禄二年(一四五八年)に満祐の弟の孫の赤松政則を当主とする赤松氏再興が許された。正則は加賀北半国の守護職が認められた。守護は国毎に設置することが原則であるが、国の北半国や南半国を領域とする守護も存在した。たとえば近江国は京極氏が北半国、六角氏が南半国の守護となる。
加賀国は赤松氏にとって縁もゆかりもない場所である。しかも富樫成春が実効支配していて赤松氏の支配に容易に服さなかった。赤松氏としては本拠地の播磨国、備前国、美作国への思いが強かったが、これらの守護職は山名氏のままであった。山名宗全は有力守護大名であり、ここから播磨守護などを取り戻すことは容易ではなかった。
このような正則にとって応仁の乱はチャンスであった。正則は東軍(細川勝元方)に属し、播磨・備前・美作守護を山名から取り戻すことを目指した。この目的があるために東軍の中でも主戦派であった。政則は応仁元年(一四六七年)五月に播磨国に攻め込み、応仁の乱の地方への波及の出発点となった。
山名氏の赤松氏旧領支配は過酷であった。寺社本所領の年貢を押領し、牢人となっていた赤松氏旧臣の牢人狩りを行っていた。このために播磨国内の山名氏への反発は大きく、政則の進攻を歓迎した。政則は播磨国で有利に戦争を進めることができた。
政則は応仁の乱後に播磨・備前・美作守護になる。応仁の乱で疲弊した守護大名が多い中、勢力を拡大した存在である。ところが、文明一五年(一四八三年)に但馬守護の山名政豊が播磨国に侵攻した。山名氏にとって播磨国は自己の領国であり、応仁の乱によって政則に奪われたという認識であった。正則は迎撃するが、惨敗した。長享二年(一四八八年)にようやく山名氏を播磨国から追い出した。
林田町松山には松山城が築城された。永正年間(一五〇四年から一五二一年)は赤松氏の被官の衣笠長門守村氏が城主であった。同じく永正年間には赤松氏の被官の谷沢甲斐守国氏が林田町林田に窪山城を築城した。同じ赤松氏の被官と言っても、国氏は村氏の影響下にあった。




