林田郷
播磨国揖保郡林田里は霊亀元年(七一五年)に林田郷に改称された。国郡里制が郷里制に改められたためである。唐の州県郷里制に倣った制度である。五〇戸から成る里を郷とし、郷を新たに二つか三つの里に分割する。行政単位を分割化し、農民支配を強化しようとした。無駄な組織やポストを作る官僚制の弊害が律令国家にも生じている。うまくいかないことは当然であり、天平一二年(七四〇年)頃に里が廃止され、国郡郷制になった。
平安時代初期になると林田農業(林田農法)が普及した。これは焼畑農業の進化した形態である。焼畑農業は山林を伐採して火入れし、四年間から五年間畑として耕作して放棄する。焼畑農業は森林破壊と土壌汚染が発生する。
林田農業は伐採後に火入れせずに畑として十年ほど耕作して林に戻す。林に戻す際はハンノキを植えて地力を回復させる。ハンノキは空気中の窒素を固定するために地力回復になる。ハンノキの樹皮は染料になり、樹木は家具の用材になる。林田農業では森林保護ができ、土壌も肥沃化する。また木材資源や食糧生産にも寄与できる。焼畑農業に比べて持続可能性が高い。
この林田農業は国司や大領主ではなく、独立した小農民によって運営された。日本には大規模農業が効率的という感覚があるが、小規模の経営の方が資源を効率的に利用できる。
荘園制が発達すると、林田郷の一部は林田荘として成立する。林田荘は寛治七年(一〇九三年)に賀茂別雷神社(上賀茂神社)の荘園になった。林田荘では元暦二年(一一八四年)四月二九日の文書で守護人や地頭が横領や狼藉をしていると記録している。守護・地頭は公式には文治元年(一一八五年)一〇月、源義経・源行家の追討を目的に設置されたが、それ以前から自称も含めて存在していた。
林田郷は室町時代には播磨国守護赤松氏の勢力下になった。赤松氏は室町幕府草創期に赤松円心(則村)が足利尊氏を支えた。円心は鎌倉幕府打倒に尽力したが、建武の新政では不遇であった。このため、尊氏が建武政権から離反すると、足利方として戦った。播磨で新田義貞の大軍を釘付けにして尊氏の勝利に大いに貢献した。
この功績により、赤松氏は室町幕府で三管四職の四職の一つとして重きをなした。三管は管領に就任できる守護大名であり、斯波・細川・畠山の三家である。四職は侍所所司に就任できる守護大名であり、赤松・一色・山名・京極の四家である。
赤松氏の家臣の喜多野新左衛門忠助が応永年間(一三九四年から一四二八年)に林田郷に入った。忠助は林田町上伊勢に空木城を築いた。




