林田里
林田は律令時代の播磨国揖保郡林田里に遡る。播州平野に位置し、瀬戸内性の豊かな自然と、安定した気候に恵まれた関西屈指の穀倉地帯である。林田川が流れる。林田里には、ある種の優しさと平穏がある。温かい湯に浸されるような心の安らぎがある。別の場所とは光も色も音も匂いも重力も違う世界に入ったようであった。
播磨国は山陽道の一国であり、摂津国、丹波国、但馬国、因幡国、美作国、備前国に接する。播磨国は出雲と大和を結ぶ陸上交通路の中間点である。韓国から筑紫(九州)、大和を結ぶ瀬戸内海の海の道の中間点でもある。揖保郡は西播磨にある。揖保郡の西は赤穂郡で、その西は備前国である。国と郡とは現在の行政区画でいえば、都道府県と市町村に相当する。
「里の範囲として,林田川流域の北辺は宍禾郡安師里比定地手前の松山・山田あたりまで,南は美作道想定路線までである。伊勢村の大津茂川流域では,北端を大堤付近とし,南は石倉を限りとすべきであろう。東西に関しては二つの河川流域の両岸,山の稜線を境界とみなせる」(岸本道昭「7世紀の地域社会と領域支配 播磨国揖保郡の古墳と寺院,郡里の成立」国立歴史民俗博物館研究報告第179集、2013年、81頁)
林田里は元々、淡奈志と称した。これは伊和大神が土地占有の標を立てたところ、楡の木が生えてきたことに由来する。そこで神の手の印という意味で、淡奈志と呼ぶようにした。実際、林田川の自然堤防には楡の並木が広がっている。
伊和大神が土地占有の標を立てた背景は、新羅から来た天日槍との国占め争いである。交通の結節点であった播磨国は古代から外来者の争いが激しかった。
天日槍は新羅国の皇子である。水辺で太陽の光を受けた女が赤玉を生んだ。天日槍が赤玉を床に置くと赤玉は女性になった。
「あぁ……」
天日槍は思わず声が洩れた。
「どうしたの?」
女性が尋ねた。
「いや、何でもないよ」
天日槍は首を振った。
「そう? ならいいけど」
天日槍は、この女性を妻とするが、女性は逃げ出してしまった。それを追って播磨国にやってきた。
播磨国にいた伊和大神は天日槍に退去を求めた。
「ここは私の国です。他所へ行ってください」
しかし、天日槍は立ち去ろうとしなかった。
「私は海を渡ってやってきたのです。故郷に帰ろうにも船がありません」
「それなら私が船を造りましょう」
早速、伊和大神の宮で造船の神事が行われた。
「ああ、どうか立派な船ができますように……」
祈りながら見守る神々の前で、船はみるみるうちに形を整えていった。やがて完成した船の形は、まるで亀のような姿であった。その船首から船尾までの長さは八十尋(約二十メートル)もあった。
「これでは大きすぎるね。もう少し小さくしてくださいな」
今度は帆柱を三本立てた帆船になった。
「もっと小さい船でいいんですよ」
伊和大神は帆柱を二本にした小舟を作ってみたのだが、それでもまだ大きかった。仕方ないため、さらに帆柱を減らした。すると、やっと普通の大きさになった。ところが、出来上がった船は風向きに逆らって進むため、帆を張ることもままならない有様だった。
「神様でもできないことはあるんだねぇ」
人々は変な意味で感心した。
伊和大神は先住者のように振舞っているが、彼も出雲から来た外来者である。「ぐずぐずしていたら、国を取られてしまう。早く土地をおさえてしまおう」と大急ぎで移動した。その途中、ある丘の上で食事をしたが、慌てていたため、ご飯粒をこぼしてしまった。ここから、その丘を粒丘と呼ぶようになった。これが揖保郡の由来である。
伊和大神と天日槍は軍勢を出して戦ったが、決着がつかなかった。そこで伊和大神は提案した。
「高い山の上から三本ずつ黒葛を投げて、落ちた場所をそれぞれが治める国にしよう」
天日槍は同意した。二人は山に登って黒葛を投げたところ、伊和大神の黒葛は播磨国、天日槍の黒葛は但馬国に落ちた。そこで伊和大神が播磨国、天日槍が但馬国を治めることになった。
伊和大神の子に伊勢都比古命、伊勢都比売命の兄妹がいた。この兄妹は林田里の伊勢野の山の峰にいた。衣縫猪手と漢人万良の祖が、社を建てて祀った。これによって平穏が訪れ、里を形成することができた。これが伊勢野の由来とされる。後の兵庫県姫路市林田町上伊勢と下伊勢である。この祭祀は林田町上伊勢の多賀八幡社に受け継がれている。
淡奈志が林田と呼ばれるようになった由来は諸説ある。第一説は林を開拓して田にしたとする。「森林を伐採して田畑にしたところという意味で、そこを領し、あるいは耕して名字としたものです」(大野敏明『日本人なら知っておきたい名字のいわれ・成り立ち』)。
第二説は祝田の転称とする。林田には祝田神社がある。
第三説は火事の伝承に由来する。淡奈志に大火事が起きた。村人達が集まって相談した。どの家に身を寄せるかということを決めるためである。話し合いの結果、一番貧しい家の者が犠牲になることになった。つまり、貧乏くじを引いた者の家にみんなで押しかけようということになった。それで選ばれた家がハヤシダケと呼ばれていた。それが訛って、ハヤシダと呼ばれるようになったと言われている。




