大坂夏の陣
大阪冬の陣では大坂城の防御が固く幕府は攻めあぐねた。このため、家康は城内に心理的圧力をかけるべく、昼夜を問わず砲撃を続けた。その中で家康は和議が成立し、大坂城の堀の破却を条件として和議が成立した。
幕府は大阪城の全ての堀を埋め立て、大阪城を丸裸にした。この点について和議の内容について二説ある。
第一に外堀だけを埋める条件であった。ところが、幕府は内堀も勝手に埋めてしまった。
第二に全ての堀を埋める条件で、外堀を幕府、内堀を豊臣家が埋める約束であった。ところが、大阪方が工事を進めなかったため、幕府が自ら埋め立てた。
豊臣方に感情移入すると、徳川の騙し討ちには腹立たしさを感じる。但し、石田三成が堺を支配下に置いた際も、堺の堀を埋めさせていた。堺に同じことをしていたならば印象が変わる。
和睦直後から徳川方は大砲の製造など戦争準備を進めていた。徳川と豊臣の間に火種がくすぶり続ける中、京で大火事が起こる。京都所司代の板倉勝重は慶長二〇年(一六一五年)三月、大阪方の浪人が乱暴・狼藉していると家康に報告した。
家康は豊臣家に、豊臣方に付いた大坂城の牢人達を放逐するか、秀頼の国替えを受け入れるか、どちらかを決断するよう迫った。
「秀頼公が大坂城を出ないと、幕府の威信に関わるのだ」
「秀頼公が大坂城を出れば、幕府に恭順の意を示したことになる」
秀頼は決断を迫られていた。
「自分は大坂を出るつもりはない。このままではいずれ家康に滅ぼされるだろうな」
「……ならば、戦うしかありませんね」
「私もお供いたします」
「しかし……」
「上様と共に死ぬ覚悟ならとうに出来てございまする」
淀の妹の常高院は両家の激突を食い止めようと駿府で必死の嘆願をするが、家康の心は変わらない。淀のもう一人の妹の江は淀に「江戸で一緒に暮らそう」との手紙を送るが、淀は「もはや引き返すことはできぬ」と拒絶した。
秀頼は再び兵糧米を集めだした。これに対して幕府は大阪への米の輸送を禁止した。米を換金したければ、尼崎を経由して運んだ先の京都や伏見で行うよう指示した。大阪の経済封鎖により、尼崎の経済的地位が高まった。
大坂夏の陣の火蓋が切られる。浪人衆は士気を挙げるために秀頼の出馬を求める。しかし、淀は秀頼の出馬を許さなかった。
大坂の夏の陣で最も有名な武将は真田信繁(幸村)である。真田隊の決死の突撃で一時は豊臣方が優勢となり、徳川本陣が総崩れになった。
「家康さえ殺せば、あとは烏合の衆よ」
家康は僅かな従者を引き連れて逃走し、一時は切腹を覚悟するが、大久保彦左衛門に諌められた。父を救うために駆け付けた秀忠は、信繁の壮絶な戦死を目の当たりにする。信繁の活躍は島津忠恒から「真田日本一の兵」と評された。
「あれほど見事な最期を遂げた者は古今東西にもいないであろう」
「さすがは父上の恐れた男です」
「うむ、だが、そのせいであの男は死んでしまったのだ」
秀忠は信繁の死を悼んだ。
真田信繁は江戸時代の軍記物や講談で真田幸村と知られていた。昭和の歴史作品でも真田幸村一色であった。近年はNHK大河ドラマ『真田丸』のように真田信繁の表記が登場している。とはいえ、幸村は完全なフィクションでもなく、江戸時代の真田家は「幸村の名前は、信繁が大阪城に入ってから名乗ったもの」としている。
真田信繁は真田家で最も有名な武将である。しかし、大阪の陣以前は決して武勇が知られていた訳ではなかった。父親の真田昌幸は謀将として有名である。武田信玄には「信玄の両眼の如き者」、豊臣政権では「表裏比興の者」と評価された。第一次上田合戦と第二次上田合戦では徳川の大軍を撃退した。
「我は武田の遺臣にて、徳川殿に降ったつもりは毛頭ありませぬ」
家康にとって真田家など取るに足らない存在だったが、予想外の敗戦になった。
兄の信之は第一次上田合戦などで活躍した。これに対して信繁の実戦経験は第二次上田合戦くらいであり、それも昌幸の指揮下で活躍したものである。信之が第一次上田合戦で支城の戸石城に着陣し、独自の指揮官となって活躍したこととは比べられない。
大阪城に入った浪人衆には朝鮮出兵などを戦い抜いた毛利勝永や後藤基次もおり、信繁が頭一つ飛びぬけて活躍するほどの実績はなかった。大坂の陣の前の段階では信之の方が世の中の評価は高かった。江戸幕府から警戒されながらも、信頼を得た信之は評価に値する人物である。




