豊臣家滅亡
豊臣方壊滅の報を受け、秀頼と淀は全ての終わりを悟る。大阪城天守閣は炎上し、金色の火柱が高く噴き上げ、炸裂の火花を散らした。秀頼らは山里丸に入るが、そこも徳川勢に包囲された。大野治長は千姫の身柄と引き換えに秀頼の助命を嘆願したが、家康は拒否し、自害を決意した。
「これでよかったのか?」
「はい、上様の御為に尽くせました故」
「そなたの忠義に感謝するぞ」
秀頼の死により、豊臣家は滅亡した。
秀頼は側室との間に国松という息子がいた。まだ八歳であった。国松は乳母と脱出した。
「父上はどこへ行ったのです?」
「この城とともに果てました」
「何故です? 何故、私だけを残して死ぬのです!」
「それが国松様の定めです。辛い思いをさせます」
「うっ……うぅ……」
しかし、五月二二日に伏見町に潜伏しているところを見つかり、翌二三日に六条河原で斬首された。国松は家康の背信行為を堂々と責めた。
大野治長の弟の大野治胤は大阪城から脱出し、京都に潜伏したが、野間金三郎と小林田兵衛に捕らえられた。野間金三郎と小林田兵衛には褒美として治胤の指していた大小の刀が与えられた。治胤は大坂の陣で堺を焼き討ちにしたため、堺奉行のところに護送された。
「お奉行様」
「なんだ?」
「この者が大野治胤です」
「うむ……」
治胤は焼き討ちへの罰として火あぶりの刑に処された。
「私は堺を焼いた罪人だ。どのような刑にも従おう」
「潔い男じゃのう」
「私のような者は死ねばいいのだ」
「お前の気持ちはよく分かった」
「だが、その前に聞きたいことがある」
「何なりと」
「大坂城の堀を埋めたのは誰だ?」
「……それは……徳川方の浪人衆でございます」
「そうか……やはりな」
「お主はわしを恨んでいるか?」
「いえ、恨みはございませぬ」
「そうか」
「ただ、あの浪人衆は徳川方の言い分を信じ、我らを裏切り、大坂城を焼き尽くした。それ故に憎んでおりまする」
「そうか。お主を火あぶりにするのは、堺の町衆へのせめてもの供養だと思ってくれ」
「分かり申した」
「では、さらばだ」
こうして、大野治胤は処刑された。
大坂の陣で明暗を分けた茶人に古田織部と織田有楽斎がいる。二人は逆の陣営に臨んだが、結末も逆であった。織部は徳川方であったが、豊臣方に通じているとされて切腹した。有楽斎は大阪城にいたが、冬の陣の後に大阪城を出て許された。織田有楽斎の方が古田織部以上に豊臣家に近い立場にあるのに有楽斎の方が生き残った。有楽斎は本能寺の変でも生き延びており、良くも悪くも世渡り上手という見方がある。しかし、単に織田の血筋だから許された面がある。
織部は徳川秀忠の茶の湯指南役であった。当時の天下一の茶人の切腹という点で、豊臣秀吉の茶道であった千利休の切腹と重なる。一条戻橋で木像とともに梟首された利休と異なり、織部の切腹は秘密裏に進められた。このため、織部の切腹に至る理由は利休以上に謎に包まれている。
利休切腹より織部切腹の方が密室性は高くなった。その理由は幾つか考えられる。第一に豊臣政権は利休を罪人と喧伝しなければならないほど政権基盤が脆弱であった。江戸幕府は、その必要がなかった。
第二に江戸幕府は豊臣政権以上に陰湿であった。
第三に江戸幕府は逆に織部に一定の敬意を払っていた。その根拠として秀忠は織部の茶の湯を好み、織部流は織部切腹後も柳営茶道として続いたことがある。
利休の千家は後に茶道家元として復興し、表千家、裏千家、武者小路千家と三つの家が栄える。これは豊臣の天下が続かず、徳川に権力が移ったこともあるだろう。




