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林田藩  作者: 林田力
建部政長
78/142

卑怯な言いがかり

方広寺鐘銘事件は卑怯な言いがかりであり、徳川家康の汚点になった。関ヶ原の合戦後に家康が完全な天下人になったとする見方は後の時代から遡った視点である。関ヶ原の合戦後は徳川と豊臣が併存する二重公儀体制であった。家康自身も当初は二重公儀体制で良いと思っていた。しかし、後から心変わりして、豊臣家を屈服させるか滅ぼすかしないといけないと考えるようになった。それが難癖の背景であり、豊臣よりも徳川の問題である。


方広寺鐘銘事件が家康の完全な言いがかりではなかったとする見解がある。当時は名前を使うことを憚る意識があり、それにも関わらず大阪側が意識的に使用していたとする。しかし、これは該当しない。


名前は他者から認識されるために存在するものである。名前を使うことを憚る意識があるとすると、それは名前の本来的機能とは異なるものである。実際のところ、名前は落首で使われている。手取川の戦いの落首に「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長(信長)」がある。これは上杉謙信を持ち上げて、織田信長を貶めているが、どちらも平等に名前を呼ばれている。


「御所柿は独り熟して落ちにけり木の下に居て拾う秀頼」は、家康と秀頼の二条城会見後に出回った落首である。これは家康を貶めて秀頼を持ち上げる趣旨であるが、秀頼は名前を呼ばれている。


落首の多くは当時の教養人の書いていたものであり、単なる落書きではない。当時も名前は他者から認識されるために使われており、絶対のタブーというものではない。時代劇では石田三成が「内府め」、加藤清正が「治部め」と言うシーンがあるが、実際は「家康め」「三成め」と言っていた。


大阪側が意識的に使用したとして、だから家康の言いがかりを理由あるものとするか。そこは見識が問われる。後の江戸時代は蚊がぶんぶん五月蝿いと詠んだら(世の中に蚊ほどうるさきものは無し ぶんぶといふて夜も寝られず)、政権を批判したと目をつけられた。表現の自由にとって暗黒時代であった。権力が「このように解釈できる」と言いがかりをつけることは危険極まりないものである。現代でも権力者が不快感を持つからと言葉を選ぶヒラメ公務員的な忖度社会を是とするか。


後の戊辰戦争は関ヶ原の西軍による徳川への復讐戦のようになった。ここには方広寺鐘銘事件の卑怯な言いがかりへの反感も影響しているだろう。家康は業績の割に人気の低い人物である。そこには方広寺鐘銘事件のマイナスイメージがあるだろう。人々の記憶に卑怯者と刻まれては歴史上の業績も色あせる。


大阪城に戻った且元は秀頼に「秀頼の駿府と江戸への参勤」「淀殿の江戸詰め」「大坂城からの転封」の何れかが事態解決のために必要と言上した。しかし、元々の銘文への批判自体が言いがかりに過ぎないものであり、淀殿や大野治長らに受け入れられるものではなかった。


「何という失態だ!」

治長が顔を真っ赤にして怒鳴った。

「面目次第もない」

且元が深く頭を垂れている。


且元の説明があまりに弱腰なため、治長は逆に且元が家康に内通したと疑った。

「何としても排除しろ! 奴がいる限り、我らの生存はない」

且元暗殺計画があるとも知らされ、一〇月一日に大阪城から茨木城に退去した。これを家康は大阪方の敵対行為と判断して出陣を命じた。


豊臣秀頼はどうにでもなれという投げやりな気持ちで戦を覚悟した。そこには怒りと悲しみからくる反抗心が潜んでいた。声を限りに訴えたいだろう。徳川家康に呪いあれと。

「おのれ、家康め」


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