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林田藩  作者: 林田力
建部政長
77/142

徳川家康は国家安康を詰問したい

「そもそも、この鐘銘は何のために刻んだものか」

「日ノ本の泰平を願ってのものでござる」

「そうではないだろう! 豊臣家は滅びる運命にある。だから、豊臣家と徳川家を対立させる意図をもって、書かせたのではないか?」

「滅ぶべきは、豊臣家にござりまするか? それとも、徳川家にござりましょうか?」

「何を申すか! わしは豊臣家を信頼している。故に、このようなことを申しおったのだ」

「ならば、よろしゅうございます」

「徳川幕府の世が続くことに対して、豊臣家の天下を望む者どもは必ず出て参りましょう。そうなれば、いずれ幕府と対決せねばならなくなりましょうなあ……」

「まさか!」

「その可能性はあるかと思われます」

「馬鹿を言うでない。そのような事態になるはずがないわ」

「なれど、もしもの話です」

そこで豊臣家に信頼の証として、「秀頼の駿府と江戸への参勤」「淀殿の江戸詰め」「大坂城からの転封」の何れかを要求した。


鐘銘に国家安康と君臣豊楽の言葉が用いられた意図については諸説ある。

第一に言葉通りの意味で使ったものであり、他の意図はない。これが定番である。


第二に豊臣側が意図的に用いた。これには様々な描き方がある。

淀殿が片桐且元が確認した後に勝手に銘文を変更した(天野純希『有楽斎の戦』講談社、2017年、210頁)。

淀殿が徳川家を挑発し、徳川家に宣戦布告するために用いた(NHK大河ドラマ『どうする家康』)。

しかし、豊臣家は方広寺鐘銘事件で徳川家から難詰されて豊臣家は驚いていた。淀殿も側近の大蔵卿局を駿府に派遣するほどであった。豊臣側は全く意図していない言いがかりになる。しかも豊臣家は大仏開眼供養が中止させられるという不利益を豊臣家は受けた。宣戦布告して攻撃を受けて立つという立場とは異なる。


第三に文英清韓が隠し題の趣向を取り入れ、国家安康に家康の名を用いた(NHK大河ドラマ『真田丸』)。清韓の動機についても真逆の見方がある。

まず清韓は善意で用いたが、家康が曲解して非難したとする。「清韓は国家安康君臣豊楽と徳川豊臣の融和繁栄を裏に偶したつもりであったが、逆用曲解される始末になった」(村山修一『京都大仏御殿盛衰記』法藏館、2003年)

次に藤堂高虎と清韓が共謀して豊臣家を陥れるための冤罪を作ったとする。「この鐘銘は高虎が清韓とはかって意図的に刻ませ、時期を待って問題ありと騒ぎ立てた可能性がきわめて高い」(安部龍太郎『徳川家康の詰将棋 大阪城包囲網』集英社新書、2009年、153頁)。高虎は清韓を庇護し、死後に津の寺に埋葬させている。


国家安康と君臣豊楽が一目で分かるほど非常識なものであったとする見方がある。小説では織田有楽斎が鐘銘を読んだとたんに腰を抜かすほど驚くシーンがある(天野純希『有楽斎の戦』「有楽斎の戦」208頁以下)。しかし、明白でないからこそ、五山の僧侶を巻き込んで議論になった。


家康に諮問された五山の僧侶らは家康に迎合的な見解を述べた。平安時代の阿衡の紛議で「表現を理由に罰したら文章が廃れる」と表現の自由を守る意見書を出した菅原道真とは対照的である。阿衡の紛議で「基経を諫止ないし批判した菅原道真のごとき人物が出たことは痛快というべく、これに対し鐘銘事件では誰一人正面から家康に反対意見を開陳した者はなく、作者清韓を支持したのはわずかに妙心寺の海山和尚ただ一人であった」(村山修一『京都大仏御殿盛衰記』法藏館、2003年)。方広寺鐘銘事件は近世の仏教が幕府の統制下に入ってしまうことを示す事件になった。

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