家督相続
徳川家康は慶長一〇年(一六〇五年)四月一六日に秀忠に征夷大将軍職を譲り、天下は徳川家で世襲することを明らかにした。これによって豊臣家と徳川家の緊張が高まり、不穏な空気が流れた。豊臣家と徳川家の緊張が高まる中、光重は慶長一五年(一六一〇年)に三三歳の若さで急死してしまう。豊臣家と徳川家の暗闘がストレスになったのだろうか。
政長は光重が亡くなった時に僅か八歳であった。このため、豊臣秀頼は建部氏の知行を没収しようとした。豊臣家は親の領地ということで子どもが継承することを必ずしも認めない。秀吉は丹羽長秀から丹羽長重、蒲生氏郷から蒲生秀行の代替わりでは領地を召し上げている。秀吉から見れば能力主義となるが、家臣から見れば安定性がない。この不安定さは、豊臣政権離れの一因である。豊臣恩顧の大名と言われるほど恩を感じられないのが豊臣政権であった。
安土桃山時代は中世と比べると中央集権的である。後の江戸時代と比べても中央集権的なイメージがある。実際は江戸幕府の方が織豊政権よりも強大な権力を有していたが、織豊政権は独裁者の恣意に振り回されたイメージがある。それが嫌われて織豊政権は短命になった。
政長は池田輝政を通じて徳川家康にとりなしてもらい、無事相続した。徳川家康は池田重利を政長の後見人とした。池田重利は下間頼龍の息子である。政長の母親は、本願寺僧侶・下間頼龍の娘である。
家康には恩を売って豊臣秀頼の家臣団を操り人形としたい思惑があっただろうが、政長は家康に感謝しない訳にはいかなくなった。このために、もし豊臣家と徳川家の間に戦が起きた場合は徳川家に味方すると決意した。決意しただけでなく、家康に誓紙を出した。
「建部家は内府様への忠義心が高いのですな」
「はい、建部家は内府様に忠誠を誓っております」
「それは安心できますね」
政長の言葉を聞いた藤堂高虎は安堵の表情を浮かべる。
しかし、摂津尼崎郡代という立場で徳川に味方することは口で言うほど容易ではない。豊臣秀頼の家臣団を抜けて家康に味方しなければならない。郡代は在地にいて、大阪城に詰めている訳ではないため、大阪城に馳せ参じなければ良いものの、在地の人々が自分に従うとは限らない。豊臣贔屓の人々から裏切り者として大阪城に突き出される危険があった。
さらに大阪城は目と鼻の先である。今から振り返れば大阪の陣は篭城戦で終わったが、豊臣家が撃って出る可能性もあった。実際、大阪城に入った浪人衆の真田信繁(幸村)は畿内の制圧を主張した。そうなれば建部家は真っ先に攻略されるかもしれない。このため、豊臣家を裏切ることはおくびにも出さず、政長は笑顔を絶やさなかった。
そもそも建部家は関が原の合戦で積極的に石田三成に味方するつもりはなかった。むしろ徳川家康に味方したかったが、周囲が西軍であったために西軍に味方せざるを得なかった。父の光重は流されるままに西軍に味方した結果、取り潰されそうになった。
関ヶ原の合戦の失敗を繰り返さないために政長は一計を案じた。尼崎近郊の庄屋を呼び集め、「秀頼公からのご命令である」として人質を出すことを求めた。また、母には弟を連れて、親類である池田家に逃げる用意をさせた。人質を集めたお陰で、大阪の陣が始まっても、尼崎で大阪に通じる者はなかった。




