二条城会見
政長は拠点を要塞化し、籠城戦に耐えられるようにした。
「城普請の方はどうなっておるのか?」
「はい、既に櫓などの主要な建物は完成しております。あとは内装を整えるのみでございます」
「そうか……では、その方らに任せるとしよう。任せるぞ」
「はっ!ありがたき幸せ」
事実上の尼崎城である。多数の櫓や門で固め、城の周囲には寺社を配して事実上の出城とした。城内から濠と川を使って船の出入りができるようにした。その後、尼崎城は、尼崎藩主になった戸田氏鉄によって元和四年(一六一八年)に大修築された。
政長は兵糧の備蓄を進めた。
「今は米の収穫を急がねばならぬ」
「そうでしたな」
「うむ。今年は雨が少なく豊作だと聞く」
「えぇ、その通りですとも」
「ならば良いではないか。それに、もし戦に駆り出されたとしても、農民どもに飯を食わせなければなるまい?」
「確かに……」
「ならば少しでも多く蓄えておくに限るというものだ」
「左様にございまするな」
慶長一六年(一六一一年)三月二八日に京都二条城で徳川家康と豊臣秀頼が会見する。淀殿は家康が大阪に来るべきと主張したが、加藤清正らが護衛することで上洛することになった。秀頼には浅野幸長や加藤清正、池田輝政、藤堂高虎が随伴した。秀頼は堂々としており、家康が気後れするほどであった。会見が平和裏に終わったため、人々は徳川と豊臣の平和が続くと胸をなでおろした。
家康は満面の笑顔であった。しかし、その目は笑ってはいなかった。家康は秀頼の堂々として姿を見て逆に豊臣家を滅ぼすことを決意した。
「秀頼は愚か者と聞いていたが、それは誤りであった。賢い人であった。人の下に立つ人物ではない」
また、家康は秀頼本人だけでなく、豊臣家のために清正らが熱心に動いたという事実を危険視した。
二条城会見後に落首「御所柿は独り熟して落ちにけり木の下に居て拾う秀頼」が出回った。これも秀頼に対する京都の人々の期待を示している。京都所司代の板倉勝重は落首を家康に見せ、書いた人を探して罰すべきか尋ねた。
「落書きは禁止するな。私が見て参考になることもあるだろうからそのままにしろ」
家康は答えた。この点は家康が秀吉と異なるところである。この点に関しては秀吉よりも家康の方が天下人の資格がある。
この二条城会見の後に豊臣恩顧の大名が相次いで亡くなった。豊臣政権五奉行筆頭の浅野長政が四月七日に亡くなった。三中老の堀尾吉晴は六月一七日に亡くなった。秀吉子飼いの代表格の加藤清正は六月二四日に亡くなった。徳川家による暗殺との俗説も出るくらいタイミングの良い急死であった。陰謀があったかは別として豊臣恩顧の武将が相次いで鬼籍に入ったことで豊臣家が孤立していったことは確かである。前年の建部光重の急死と政長の家督相続も同じ文脈になる。




