建部政長
建部政長は建部光重の息子として慶長八年(一六〇三年)に生まれた。幼名は三十郎。後の林田藩初代藩主である。関ヶ原の合戦の後に生まれた世代である。戦国時代は遠くなりつつあった。
政長が生まれた年に徳川家康は征夷大将軍に就任し、江戸幕府が誕生した。
家康が最高権力者としてどの地位に就くかは内部で議論された。
「なに? 征夷大将軍だと?」
「はい。そもそも武家政権の始まりである源頼朝公は征夷大将軍でありました。この際、徳川家こそが名実ともに日本の支配者であることを内外に示すために征夷大将軍になることは如何でしょうか」
「ふむう……」
将軍の提案を吟味した家康であったが、一旦は首を横に振った。
「余にはその資格はない」
「何故でございますか」
「余は天下人ではないからだ」
「……」
「余はあくまでも源氏長者だ」
断固として固辞する家康の意志は固かったが、いつの間にか将軍になるべき存在になっていた。
徳川秀忠の長女の千姫は慶長八年(一六〇三年)に豊臣秀頼と結婚し、大阪城に入る。僅か七歳で豊臣と徳川の政略結婚を担うことに母親の江は心配し、身重の体で大坂の旅に同行した。
「本当に嫁に行ってよいのか」
伏見に到着した江は千姫に尋ねた。
「私は父上と母上のお役にたちとうございます」
娘の思いに江は涙を流した。
「母上が泣くと、お腹のややも泣きます」
千姫は江を慰めた。幕末の思想家の吉田松陰は「親思う心にまさる親心」と詠んだが、子どもの親を思う心が親心に勝っていた。
婚礼を待つうちに江は産気づき、秀忠との三女を出産した。この三女は姉の初の養女になる。娘の政略結婚の道具にしないという江の決意を反映したものであった。江にとっては娘を政略に使う徳川家康への精一杯の抵抗であるが、子どもの意思を無視している点は家康と同レベルである。
建部政長の父親の光重は豊臣秀頼の家臣であった。山城国の由岐神社の拝殿や摂津国の多田院、大和国の吉野水分神社など秀頼の寺社再興の作事奉行になっている。光重が奉行となった寺社は地盤を石垣で組むことなど共通の傾向があった。
豊臣秀頼は方広寺再建など秀吉の追善供養を名目として多数の寺社造営を進めた。この黒幕は家康であった。寺社仏閣建造で豊臣家の金銀を枯渇させようとする策略である。この頃の家康は伏見城などの普請を大名に課し、大名の財力を弱めた。しかし、豊臣家に普請を課すことは遠慮していた。その代わりの寺社造営である。
片桐且元ら融和派は家康の意図に乗っかった。金銀をため込み過ぎると戦に備えていると警戒されるため、豊臣家の力を弱めることで江戸幕府の脅威にならないことをアピールしようとした。しかし、西国大名が進んで造営を援助したり、建設ラッシュによる好景気で豊臣家の人気が高まったりするなど逆に江戸幕府を警戒させてしまう面もあった。




