論功行賞
関ヶ原の合戦の敗北後も大坂城には毛利輝元が健在であったが、城内の空気は既に徳川方へと傾きつつあった。
「太閤殿下の御遺命を守ることこそ我ら武士の道ではございませぬか」
「わしもお主のように堂々としていられたらのう……」
輝元は思わず呟いた。
「この上は一刻もはやく大坂より退去すべきです」
「そうじゃ! それがいい」
「今すぐ出て行けば、『逃げた』と思われるでしょう。それではかえって不利になります」
「このままここに残って戦いましょう。そして隙を見て脱出するのです」
「そんなことができるのか?」
「できなければ死ぬだけでございますよ」
「だがどうやって戦うのだ?」
結局、輝元は戦わずに大阪城を退去した。
関ヶ原の合戦後の論功行賞は西軍に厳しいものになった。建部氏は所領を没収された。しかし、義父池田輝政の取り成しで許された。池田氏との関係が建部氏の力になった。ここから建部氏は池田氏の藩屏的な存在になる。
毛利輝元は一二〇万石から長門国・周防国二国(防長二州)三六万石に減封された。本拠地だった広島(安芸国)は福島正則が新領主になった。輝元は出家剃髪して宗瑞と称し、家督を長男秀就に譲った。長州藩の初代藩主は秀就であるが、藩祖は輝元である。輝元は寛永二年(一六二五年)に没した。
真田昌幸・信繁父子は流罪になる。真田信之は本多佐渡守正信経由で真田昌幸・信繁父子の赦免を願い出た。これは交渉上手である。真田信之は義父の本多忠勝のみに頼らず、本多忠勝とそりが合わない本多佐渡守正信とも通じて多面的に攻めた。しかし、残念なことに、この時代は大久保長安ら大久保派が台頭しており、本多正信の発言権は低下していた。真田昌幸・信繁父子の赦免がうまくいかなかった理由には、これがあるだろう。
東軍に属した加藤嘉明は伊予国正木城主(十万石)から二〇万石になる。嘉明は賤ヶ岳の七本槍の一人である。大封となった嘉明は足立重信を普請奉行に任命して松山城を築城した。
松山城は金亀城や勝山城とも呼ばれる。標高一三二メートルの城山(勝山)山頂に本丸があり、裾野に二之丸(二之丸史跡庭園)、三之丸(堀之内)がある。三之丸は土塁と堀に囲まれ、外部との出入口として、北御門(大手)と東御門(揚手)が設けられていた。
江戸時代以前に建造された天守が残り、国の重要文化財に指定された。江戸時代以前に建造された天守は日本で一二か所しか残っていない(現存一二天守)。現在は城山公園になっている。姫路城・和歌山城とともに日本三大連立式平山城の一つである。「日本一〇〇名城」「美しい日本の歴史的風土一〇〇選」に選ばれている。
松山城のマスコットキャラクターは加藤嘉明に因み、「よしあきくん」である。松山城築城四〇〇年を記念して誕生した。




