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林田藩  作者: 林田力
建部光重
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島津の退き口

関ヶ原の合戦当日の島津義弘の行動は多くの議論を引き起こす。通説は義弘が傍観者であったとする。石田三成自身が島津義弘に参戦を要請した際、副将の島津豊久は他人の指図に従うつもりはないと拒絶し、動かなかった。


これに対して島津勢は二番備であり、戦うべきところを傍観した訳ではないとの反論がある(桐野作人『関ヶ原 島津退き口 敵中突破三〇〇里』学研新書、2010年)。彼らは決して傍観者ではなく、戦う覚悟を持ち、その機会を待っていた。義弘は、自分がこの合戦で果たすべき役割は何かを考えていた。


三成の要請に応じなかった理由は、三成の要請は小早川秀秋が西軍を裏切った後になされたものであるためとする。秀秋の裏切りにより、西軍の敗北が明らかになり、島津勢にとっては戦局が大きく悪化したため、三成の指示に従う段階ではなくなった。


従って豊久の拒絶は、彼が三成と感情的な対立があったからではなく、戦況の変化に対応した行動だったとなる。関ヶ原の合戦における島津義弘と島津勢の行動は、歴史的な文脈や状況に応じて異なる解釈がなされており、その真相は複雑である。


西軍が総崩れになると、義弘は敵中突破による壮絶な前進退却戦を敢行し、東軍との激しい戦闘に立ち向かった。彼の心意気は兵士達に大きな勇気を与えた。

「たとえ討たれるといえども、敵に向かって死すべし」

義弘は兵を鼓舞した。その言葉は、命がけで戦う決意を固めた者達の心に響いた。彼らは義弘の指揮の下で奮闘し、壮絶な戦闘を繰り広げた。


島津勢は福島正則の部隊と衝突した。

「追うな」

正則は追撃しないように家臣に命じた。正則は死を覚悟した武士ほど恐ろしい者はなく、深追いすれば無駄に兵を失うと理解していた。正則の冷静な指揮は、無駄な犠牲を避け、勢力を温存するための賢明な戦術であった。正則は三成への反感から東軍で戦ったが、家康が豊臣秀頼を蔑ろにする危険性も考えていた。自軍の消耗を避けるだけでなく、島津家の勢力が残った方が良いと考えた。


井伊直政率いる軍勢が島津勢を激しく追撃してきた。島津豊久は苛烈な「捨てがまり」で応戦した。これは退却する途中で小部隊を留め置き、追ってくる敵と死ぬまで戦って足止めし、本隊を逃がす戦法である。豊久の行動は島津勢の励ましとなり、また、戦場での連携と犠牲の精神が、島津軍の戦術において重要な要素となった。


長寿院盛淳は義弘の名を騙って、自らを義弘と名乗り、東軍に立ち向かった。

「我こそは島津義弘」

その叫び声が戦場に響き渡った。その勇敢な行為は敵の注意を引きつけ、盛淳は戦死した。彼は自らの命を捧げ、義弘の身代わりになることで、島津勢が逃げる時間を稼いだ。盛淳の勇気と忠誠心は、武士道の真髄を示すものとして尊敬された。


関ヶ原の戦場を脱した後も島津勢の苦闘は続いた。瀬戸内海を船で進んだが、九州では黒田如水配下の水軍に見つかり、海戦になった。島津勢は多大な犠牲を払いながらも大将の義弘を薩摩に帰国させることに成功した。


島津勢の勇敢な戦闘ぶりは「島津の退き口」と呼ばれ、多くの武将に感銘を与えた。関ヶ原合戦の結末は西軍の敗北であったが、義弘の勇猛さは多くの人々の心に残った。彼は歴史の中で名誉ある一頁を刻み、日本の戦国時代の英雄として讃えられた。


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