小早川秀秋は戦況を見極めたい
秀秋は筑前筑後三〇万石の小早川家の家督を相続したが、慶長三年(一五九八年)に越前北ノ庄一五万石に減封されて転封となってしまった。秀秋は慶長の役に出陣し、蔚山城の戦いで活躍したが、それが帰国後に逆に非難された。
「蔚山城の戦いの武功は一兵卒の蛮勇であり、大将として軽率である」
これによって小早川領は太閤蔵入地となり、石田三成が代官になった。秀秋は石田三成の讒言による冤罪と受け止めた。
秀吉が八月一八日に死去すると、徳川家康が政治の実権を握ることになる。家康は慶長四年(一五九九年)二月五日付で秀秋の処分を取り消し、筑前・筑後に復領させた。この経緯から秀秋にとって三成と家康が対立したら、家康に味方することは自然であった。
秀秋には西軍に味方する理由はなかった。石田三成には讒言によって領地を没収された恨みがあり、徳川家康には取りなしてもらった恩義がある。周囲も徳川内府に味方することは当然と受け止めていた。関ヶ原合戦後の秀秋の低評価は裏切ったことへの批判よりも、土壇場にならなければ裏切らなかったことへの批判であった。
裏切りが遅れた理由は三説ある。
第一に、そもそも西軍とも東軍とも戦いたくなかった。家臣からどちらで参戦するか迫られたが、「どちらとも戦いたくない」と答えた。東西両軍とも昨日までは同じ豊臣政権の家臣だった。それが互いに戦わなければならないことが異常である。秀秋は戦国武将とは次の世代である。僅か七歳で丹波亀山城十万石の大名になっている。最初から豊臣政権の中の大名であった。豊臣政権の権威を当然として育った立場には敵味方に分かれて戦うことが信じられないことだった。そこには世代ギャップもあっただろう。
第二に石田三成の提案が魅力的で心を動かされた。三成は秀秋を味方にするために関白という餌を提示した。秀秋は関白に魅力を感じて、裏切を躊躇したとする。関ヶ原での優柔不断は関白に心を動かされたためとされる。
これは現代人感覚からすれば実権を伴わないものに執着する愚かさと評価されがちであるが、もともと秀秋は関白秀吉の後継者と育てられた。そのように考えれば関白への執着も理解できる。一方で秀秋にとって関白は必ずしも嬉しいものではなかった。秀秋と同じく秀吉の養子になった関白秀次は無残な最期になった。関白の提案は逆に秀秋の裏切りを後押ししたとする説もある。
第三に冷徹に戦況を分析して最も効果的なタイミングで参戦したとする。秀秋は慶長の役では勇猛果敢な武将として活躍しており、優柔不断で気の弱い青年というイメージは作られたものである。
「大乱を高みから見下ろし、両軍の駆け引きを堪能する。そしてその上で、己の手によって勝敗を決すする。それだけが、秀秋の望みだった」(天野純希『有楽斎の戦』「秀秋の戯れ」128頁)。
合戦が始まると徳川家や黒田家の目付が西軍への攻撃を要求した。これに対して秀秋は以下のように反論した。
「敵は我らの裏切りに対し、それ相応の備えをいたしておる。ここで動いたところで、戦局に与える影響はそれほど大きくない。よって、今しばらく戦機を見極め、ここぞという時に兵を動かす」(天野純希『有楽斎の戦』「秀秋の戯れ」145頁以下)。
大谷刑部から警戒されていることが分かっているから安易に動かなかった。
秀秋は戦後の論功行賞で岡山五五万石に加増移封されたが、二年後の慶長七年(一六〇二年)に突然死去した。裏切り者と白眼視されたストレスや大谷刑部の祟りの恐怖で早死にしたとの見方が定番である。しかし、秀秋は優柔不断ではなく、裏切り者と呼ばれることは織り込み済みであり、そのような悪評に怯える存在ではなかった。
しかし、秀秋は筑前の領主として大宰府天満宮の寺領を千石から七百石に減少させた。越前への減封も突然死も菅原道真の祟りであった。




