津城の戦い
伏見城落城後、建部家は毛利秀元を総大将とする伊勢平定軍に属した。長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親ら総勢三万の兵力である。秀元の軍勢は伊賀国から伊勢国に進出した。これに安濃津城主の富田信高が籠城して抵抗した。
会津征伐に向かっていた徳川家康の軍勢は石田三成の挙兵を知ると、三成への反撃のために反転した。上杉征伐に参陣していた信高は領地が西軍に近いため、真っ先に居城に戻って籠城戦に備えた。信高らは約一七〇〇人と寡兵であった。しかも、その城兵の八割近くが津町の義勇兵で、町民も籠城して戦った津町の総力戦であった。
安濃津は三重県津市である。伊勢湾に面し、古くから港町として栄えた。津は港という意味である。『廻船式目』の三津七湊の三津は安濃津、博多津、堺津である。これは室町時代に制定された日本最古の海洋法規集である。茅元儀『武備志』日本考の日本三津は伊勢国安濃津、筑前国博多津、薩摩国坊津である。これは明代の兵法書である。
津城は北に安濃川、南に岩田川が流れ、天然の外堀の役目を果たしていた。伊賀から進出した西軍は安濃川を渡ったと思われる。安濃川は三重県津市を流れ、伊勢湾に注ぐ河川である。塔世川とも呼ばれた。
江戸時代になると安濃川と伊勢街道の交わる場所に塔世橋が架けられる。伊勢街道は国道二三号になる。塔世橋は第二次世界大戦の津空襲で爆撃被害を受けた。国道二三号線を北に進むと津駅の近くに着く。
「此度の戦いは徳川との決戦の前哨戦である! 皆のもの心してかかるように」
「応ッ」
西軍の武将達は気勢を上げている。そんな中で一人だけ浮かない顔をしている者がいた。
「建部殿?如何されましたか」
「ん?あぁ、済まぬな。少し考え事をしていたのだ」
「左様にございましたか。何かありましたらお申し付けくださいませ」
「分かった。その時は頼むとするわ」
「はい」
そう言うと彼は自分の陣へと戻っていく。
「尼崎代官として、お悩みも多いのですかな?」
「さてな。それよりも今は目の前のことに集中しようではないか」
武将達は、それ以上何も言わずに自らの持ち場に戻っていった。
安濃津城の戦いは八月二三日に小競り合い、翌二四日朝に本格的な合戦が始まった。毛利勢や長宗我部勢は関ヶ原の合戦では遊兵となったが、安濃津城の戦いでは激しく戦った。吉川広家は関ヶ原の合戦ではサボタージュしたが、安濃津城の戦いでは武人の血が騒いで奮戦した。関ヶ原の合戦だけを見ると吉川家の努力に対して徳川家康は手のひら返しに見えるが、戦争全体を見ると毛利家は十分敵対的であった。




