鳥居元忠は決戦したい
島津義弘や小早川秀秋は徳川家康に味方して伏見城に入城するつもりであった。義弘は会津出陣前の家康から直々に伏見城の守りを頼まれていた。このため、義弘は徳川家に合力するために伏見城に入城しようとした。しかし、義弘を出迎えたのは拒絶の言葉であった。
「島津軍の協力など必要ない。お前はそのまま退け」
鳥居元忠は冷酷な眼差しで義弘を見つめ、島津義弘とその島津軍の力を頼むつもりはないと言った。義弘は驚きと困惑の表情を浮かべたが、元忠は固く頭を振った。
元忠は徳川家臣以外を信用しなかった。ここには三河武士の排他性があるが、それを正しいと評価する見解もある。「もし義弘が伏見城に入城できていれば、この直後に主導権を握った三成は、義弘に自分の方に付くようにと持ちかけたろうし、義弘もそれに従って伏見城から内応していた可能性が高い。鳥居らの判断は正しかったと言えよう」(山本博文『「関ヶ原」の決算書』新潮社、2020年、95頁)
ここには家康と元忠の情報伝達の齟齬があったとする見解もある。家康は義弘に伏見城を守ることを依頼したが、その依頼は口頭であり、元忠には伝達されていなかったために元忠は聞いていないとして断ったとする。
「それならば西軍に味方しよう」
義弘は西軍陣営に合流した。義弘の心には家康への恩義と、元忠での冷たい対応が錯綜し、新たな戦いへの覚悟が芽生えていた。
小早川秀秋とも同じようなやり取りがなされた。秀秋は木下勝俊と兄弟である。秀秋は勝俊と一緒に伏見城を守ろうとした。しかし、勝俊が退去してしまったことで、秀秋の意気込みも虚しくなり、孤立感が心を包み込んだ。
「家康にはもはや期待できない。それならば西軍に味方しよう」
秀秋も西軍陣営に合流することを選択した。彼らの選択は、新たな戦の幕開けを告げるものとなった。
元忠は死を覚悟した短期玉砕の方針であった。開戦までのらりくらりと交渉して時間稼ぎをすることもしていない。自分が死ぬことで豊臣家と徳川家の戦いは不可避になり、家康の天下取りが成就するとの考えである。
家康の考えについては諸説ある。第一に元忠の考えと同じとする。むしろ元忠は家康の意を受けて捨て石として戦死したとする。
第二に家康は伏見城を長期籠城して守り抜くことを期待したとする。伏見城は秀吉の築いた名城であり、簡単に落城しない。義弘らが援軍になれば十分に守り抜くことができると考えた。元忠の頑なな姿勢は家康にとっても予測不可能であった。
元忠が勝俊や秀秋を擁していれば伏見城籠城側にも豊臣政権の正当性が生じ、両乗船を長期化させることもできただろう。しかし、豊臣政権の正当性は元忠にとって嬉しくなかったかもしれない。元忠は徳川家臣中心で戦って玉砕することで家康を豊臣家の軍勢と真っ向から戦って勝つしか選択肢がない方向に追い込みたかった。
家康の旗本には関ヶ原の合戦に勝利した後に家康が秀頼を切腹させるものと思っていたと述べる者もいる。家康の家臣にとって徳川が豊臣の天下を奪う戦いという感覚だったのだろう。家康に腹をくくって豊臣家を相手に天下取りの戦をしてもらうために自分達が死ぬという感覚があったかもしれない。武将達の思惑が錯綜し、血戦の幕が切って落とされた。




