伏見城の戦い
三成は徳川方に味方した大名の妻子を人質として大坂城に集めようとした。細川屋敷にも兵を送る。ここで細川ガラシャの悲劇が起きた。ガラシャの夫の細川忠興はガラシャに執心で嫉妬深かった。ガラシャの美しさに見とれた植木職人を手打ちにしたとの逸話もある。
忠興はガラシャに「人質にされるくらいならば自害しろ」と命じていた。しかし、単に夫の物として夫の言葉に従った訳ではない。忠興の真心に接したガラシャは忠興の妻として生きることを決意し、それが壮絶な最期につながった。細川家に殉じるという封建的な行動でありながら、愛を原理として主体的に意思決定する女性であった。
ガラシャの美しさや気品に触発された多くの文化人が、彼女を題材にした詩や歌、絵画を制作し、彼女の美徳を称える作品が数多く生まれた。彼女は当時の芸術と文化の担い手としても知られ、その名前は大名家から一般市民まで、幅広い階層の人々に知られていた。
大阪を制圧した西軍にとって最初に攻略する徳川方の牙城は伏見城であった。伏見城は石田三成が七将襲撃事件で失脚した後に家康が入城した。建前は家康が豊臣政権から預かるという名目であったが、自分の城のように扱っていた。家康の伏見入城によって家康が天下人となったと評した人も出たほどである。
伏見城は豊臣政権にとって象徴的な意味を持つ城であった。後に安土桃山時代という時代区分が生まれる。安土は織田信長の安土城、桃山は豊臣秀吉の伏見城である。この城を徳川家のものにすることは三成の許容できるものではなく、奪還しようとした。三成は当初、交渉により開城させようとした。
「伏見城を明け渡すならば、将兵は皆、武器を持ったまま関東に下向することを認める」
しかし、元忠らは開城を拒否して二三〇〇人が籠城し、緊張が高まった。
伏見城松の丸は政所の兄の子である木下勝俊が守っていたが、戦いの前に退去した。これには諸説ある。
第一に自発的意思による退去である。
「太閤の築いた金吹の瓦の豪華絢爛な城が兵火に見舞われるの見るのが忍びない」
このように言って勝俊は退去を正当化した。しかし、勝俊が退去しても戦争が避けられる訳ではない。現実に伏見城は戦火によって焼失した。
第二に三成に加担していると決めつけた元忠によって追い出されたとする説である。
「勝俊殿は三成らに通じている疑いがある。伏見城から退去いただきたい」
勝俊は冤罪で追い出されたことになる。しかし、勝俊の退去は敵前逃亡と評価され、武士としての評判は失墜した。勝俊は長嘯子の名を持つ歌人であり、武士としての評価はどうでも良かった。




