茶道と禅宗
茶道と禅宗は関係が深い。茶の湯の本質は何かといえば、究極的には禅に通じるところにある。臨済宗の開祖の栄西禅師が中国から日本に茶をもたらした。茶の湯の祖の村田珠光は、禅僧一休宗純に参禅して圜悟の墨跡をもらった。
古田織部は、ひょうげものの(ひん曲った歪な)茶碗を好んだが、これも「禅の思想から生れた」との指摘がある(熊田喜三男「茶の湯史と茶の湯茶碗 美濃焼の茶陶を例として」名古屋外国語大学現代国際学部紀要第一一号、二〇一五年、六一頁)。
茶道と禅宗の関係を示す言葉として以下がある。
千利休「茶の湯は、第一仏法を以て修行得道する事なり」(「南方禄」)
山上宗二(利休の高弟)「茶の湯は禅宗より出でたるに依って僧の行を専らにする也。珠光、紹鴎も皆な禅宗也」(「山上宗二記」)
千宗旦「茶禅同一味」
「茶事は禅道を宗とする事」(「禅茶録」)
武野紹鴎の遺偈には「料知す、茶味、禅味と同じことを」とある。
現代でも『主客一如 禅と茶 無からの発想』(近藤道生、尾関宗園、尾関紹保著、金融財政事情研究会、一九九五年)という書籍が出版されている。著者の一人・尾関宗園は大徳寺大仙院の住職である。
禅寺の中でも茶道は大徳寺と関係が深い。京都の臨済宗の寺院には寺の特徴から名づけられた愛称がある。妙心寺「そろばん面」、相国寺「声明づら」、東福寺「伽藍づら」、建仁寺「学問づら」、妙心寺「算盤づら」、大徳寺「茶づら」と呼ばれる(筒井紘一『茶人と名器』主婦の友社、一九八九年、九四頁)。茶道家元の三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)の墓所は大徳寺の聚光院にある。
茶の湯自体が大徳寺の僧侶との交流から生まれたとの指摘がある。「大徳寺の僧侶と堺の商人の文化的交流のなかから生まれた茶の湯は、室町文化を後代に伝える重要な役割を果たすことになる」(千葉一幹、西川貴子、松田浩、中丸貴史『日本文学の見取り図 宮崎駿から古事記まで』ミネルヴァ書房、2022年、199頁)。堺には大徳寺の末寺の南宗寺があり、茶人の武野紹鴎や千利休、津田宗及が修行している。
臨済宗大徳寺派の関東における中心的な寺院が圓満山廣徳寺(広徳寺)である。臨済宗大徳寺派の関東への伝播は戦国時代の後北条氏の発展と重なる。後北条氏の二代目の北条氏綱は大徳寺から以天宗清を招き、箱根湯本に早雲寺を建立した。広徳寺は早雲寺の末寺として小田原で建立された。豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏は滅亡し、広徳寺も焼失した。
その後に関東の大名になった徳川家康は天正一八年(一五九〇年)に江戸の神田昌平橋に寺域を寄進して広徳寺を再建した。広徳寺は寛永一二年(一六三五年)に下谷に移転した。加賀藩前田家、会津藩主松平家、柏原藩織田家、阿波藩蜂須賀家ら多くの大名の檀家となり、江戸屈指の寺院になった。大田南畝(蜀山人)の地口に「おそれ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺」がある。諸大名を檀家にして敷地面積二万坪、その広大さで驚かせた。
広徳寺は台東区より敷地として求められ、練馬区に移転した。その遺跡は廣徳禅寺遺跡として、国史跡の指定されている。石碑には住職の福富雪底の詠んだ句が刻まれている。福富雪底は昭和三六年(一九六一年)に第三〇代住職になり、昭和五八年(一九八三年)に大徳寺第一四代管長になった。関東で茶道を学ぼうとする人が廣徳寺で修行することは自然なことである。
茶の湯と禅宗は関係が深く、茶人が禅宗の修行をすることも多い。仏弟子になると戒律を受ける。この時に戒名を頂く。現代では戒名は死後にもらうイメージがあるが、本来は生前にもらうものである。キリスト教の洗礼名に相当する。受戒は「私は仏の弟子となり、仏教の戒律を守る」という誓いの証であり、死後にもらう方が不自然である。
受戒は資格のある僧が行う必要がある。そのために奈良時代の日本は唐から鑑真を招いた。日本で最初の授戒は聖武天皇である。戒名は勝満であった。この戒名は法名、法諱という。僧侶としての名前、諱という意味である。戦国大名の武田晴信の信玄、上杉輝虎の謙信も法名である。
禅僧はさらに修業が一定の段階に達すると、師から当人の徳や人格に添うように名付けられた道号を付与される。この道号と法名を合わせた四字連称が禅僧の正式な呼称になる。大徳寺開山の大燈国師の道号は宗峰で、法諱は妙超である。このため、宗峰妙超と呼ばれる。これが鎌倉時代以降に一山一寧や蘭渓道隆、無学祖元、夢窓疎石ら漢字四字の禅僧が登場し、日本史学習者を戸惑わせる背景である。
還俗前の今川義元は梅岳承芳と称していた。義元は臨済宗の建仁寺で得度し、臨済宗の妙心寺で学んだ。これに対して還俗前の足利義昭は覚慶である。義昭は興福寺一乗院に入り、禅僧ではないため、四字連称はない。
茶人も禅宗の修行をして四字連称を有している。堺の商人の千与四郎は道号を利休、法諱を宗易とする。千利休と知られている人物である。宗は大本、根本の意味があり、宗易に連なる茶の湯者に「宗」の字をつけるようになっている。
利休没後に天下一の茶道になった古田織部は大徳寺に参禅し、大徳寺百十一世春屋宗園から金甫宗屋の道号と法諱を授かった。織部に師事した武将茶人の上田重安も大徳寺に参禅し、春屋宗園から竹隠宗箇の道号と法諱を授かった。上田宗箇として知られている。




