利休切腹
三成は利休を失脚させようと画策する。
「三成は利休を妬んでいる」
豊臣秀次は三成の動きを懸念する。しかし、それで破局に進む訳ではない。
「三成に何か言われて動く殿下ではない。これはお二人の間のことじゃ」
茶々は秀吉を理解していた。
冷え切った二人の関係改善のために行動したのは秀吉であった。秀吉は利休の茶室を訪れ、利休の才能を認め、頭まで下げる。ところが、利休はそっけない。
「あなた様のために茶を点てるのが嫌になりましたんや」
利休の方から秀吉に愛想を尽かし、三下り半を突き付けた。ここには嫌いな相手には我慢せず、茶人としての自分の人生を自分でコントロールするという積極性がある。
奉行衆は利休を陥れるために秀吉に働きかけたが、秀吉は奉行衆の傀儡ではなかった。利休切腹を決めたのは秀吉であった。秀吉は利休の謝罪があれば良いと考えていたが、利休は謝罪をするつもりはなかった。そのような顔色をうかがって忖度する関係性にウンザリしていた。山上宗二と同じである。管理されることに嫌気がさしていた。秀吉は個人の管理されない自由、支配されない自由を理解しなかった。秀吉は「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」であった。
利休像は天正一九年(一五九一年)二月二五日に大徳寺の山門から下ろされ、堀川に架かる一条戻橋に磔にされた。翌二六日に利休は再び京都へ呼び戻され、聚楽第の中の利休屋敷(葭屋町通元誓願寺下ル町)に入った。秀吉は利休の弟子であった大名達が師の身柄を奪い返すことを危惧し、上杉景勝に命じて利休の屋敷を取り囲ませた。
秀吉の使者の蒔田淡路守と尼子三郎左衛門が二月二八日に利休の聚楽屋敷を訪れ、切腹の命を伝えた。雷鳴がとどろき、霰が降る荒れた日であった。蒔田淡路守は利休の弟子であった。
「茶の湯の支度ができております」
利休は使者に最後の茶を点て、遺偈を述べた。遺偈は死を前にした心境や、弟子に言い残す言葉を漢詩の形で残すものである。
「人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛つ」
(人生七十年。気合いの声をあげる。私の宝剣で祖先も仏も共に断ち切る。私が具足の一太刀をひっさげて、今この時が私の身を天に投げうつ時である)
力囲と希咄は禅宗の掛け声である。利休の激しい怒りが感じられる。利休が粛々と切腹したとするならば権力者に都合の良い話になるだろう。蒔田淡路守が介錯した。利休の後妻の宗恩は夫の遺骸に白い小袖をかけた。切腹後に利休の首は一条戻橋で自身の木像に踏ませる形で梟首された。
利休の生き方を現代の視点から見ると、生きにくい時代を生きたと言える。昭和の発想は人間関係のトラブルに対して当人同士がもっと腹を割って話せば良いのではないかと無責任なことを言う傾向がある。しかし、相手との人間関係にウンザリしている向きには苦痛であり、負担でしかない。一方の犠牲によって相手を喜ばせることを強要するだけである。昭和の対面コミュニケーション至上主義は弊害でしかない。
利休は権力者・秀吉に対しても自らの美意識を貫いて切腹した。利休の死によって茶道界は大きく揺れた。利休亡き後は古田織部が筆頭茶頭になる。このために保身に走り、師匠を売ったと蒲生氏郷や細川忠興からは憎まれる。織部自身も茶道頭は務めとして行うものであるため、自分が好きでしていた頃とは異なり、つまらなさを感じている。
利休は人間の作為なく自然に生じる歪みに美を見出した。作為を廃した侘びの目指す先である。そこから更に織部は、それを目指そうと必死になる人間の姿に面白さを見出だす。「へうげ」の世界である。格式や箔は不要である。価格と品質が比例するという価格信仰を否定する。織部の美意識は現代日本の消費者にも訴えかける。自分が楽しいものを消費すればいい。
大徳寺三門事件では古渓もが聚楽第に召喚され、徳川家康と細川幽斎から尋問を受けた。
「大徳寺の三門は関白殿下も通られるのに、利休の像を山門の上に作り置くとは何事か。申し開きの弁があるなら申してみよ」
「木像安置は私一人の罪として仰せ付け下さい」
「関白殿下も重く見ておられるので、利休の木像が山門に安置してある理由を答えよ」
「どうとも答えようがありません」
「それでは埒があきません。どうか関白殿下の機嫌が直るように申し上げたいとお話ください」
渓は懐中より小刀を持ち出した。
「返事はこれです。自害する覚悟です」
これを家康は秀吉に報告し、問題なしとなった。




