大徳寺三門事件
「利休めはとかく果報のものぞかし菅丞相になるとおもへば」
堺への蟄居を受けて、利休が詠んだ。自らを菅原道真になぞらえている。道真は失意の左遷であったが、忖度しなければならない政治から離れて茶の湯三昧で暮らせるならば、それも良いという心境だっただろう。利休は切腹せずに晩年を九州で過ごしたとする説もある(中村修也『千利休 切腹と晩年の真実』)。
利休蟄居の直接の理由は大徳寺三門(山門)事件である。大徳寺は応仁で多くの建物が焼失した。利休は三門の再建に尽力し、天正一七年(一五八九年)に三門の楼閣である金毛閣が完成した。大徳寺は利休への謝意を示すために金毛閣に利休の等身の木造を安置した。これが問題視された。参詣するために誰もがくぐる門の上に雪駄履きの像を立てることを非礼と糾弾された。
大徳寺三門事件自体は利休を陥れるための言いがかりに過ぎない。利休像の安置は二年前の話である。本質は言論弾圧、思想弾圧である。秀吉は唐入りを構想していたが、利休は唐入りが上手くいかないと述べていた。これが秀吉の逆鱗に触れた。しかし、唐入りが上手くいかないことは世の中の常識人が普通に考えることである。これを罪状として糾弾すれば唐入りへの批判を逆に注目させることになる。三門事件には別件逮捕と同じ権力の卑怯さがある。
一方で大徳寺の三門という点は意味がある。大徳寺一一七世の古渓宗陳は、堺の南宗寺から大徳寺の住持になった。利休の知己である。古渓は秀吉が信長の葬儀を行った際に導師を務め、信長の菩提寺の総見院の開祖になった。
利休も古渓も秀吉が天下人に駆け上がる最も輝いていた時期に秀吉を支えた存在であった。それが前田玄以や石田三成ら奉行衆には面白くなかった。古渓は奉行衆と対立して、天正一六年(一五八八年)に博多に流罪になった。後に許されて大徳寺に戻るが奉行衆との対立は残った。利休切腹も、この延長線上にある。この場合、石田三成が黒幕とみられることが多いが、豊臣政権で寺社関係の職務を担当した前田玄以のセクショナリズムの対立があった。
大徳寺三門事件は利休潰しだけでなく、大徳寺潰しの狙いもあった。大徳寺は赤松則村(円心)の援助を受けて大燈国師(宗峰妙超)が京都紫野に開山した。大徳寺は五山十刹のような室町幕府の庇護と統制下にあった禅林と異なり、林下と称し、在野の民間感覚を有していた。
権力の否定は禅宗の本来的な在り方である。「禅はもともと権力をみとめない。大も小も高も低も、美も醜もみとめない」(水上勉『沢庵』中央公論新社、1997年、7頁)。鎌倉新仏教の中では浄土宗が庶民、日蓮宗は商人に支持されたイメージがある。禅宗が権力者に近い宗教のイメージがある。しかし、思想的には他力本願よりも自力の教えは権力と相容れない。
豊臣政権の権力闘争に巻き込まれた大徳寺であるが、石田三成も大徳寺を全否定はしていない。大徳寺塔頭の三玄院は石田三成と浅野幸長、森忠政が天正一七年(一五八九年)に創建した。塔頭(塔中)は寺内寺院である。大きな寺院の敷地内にある独立寺院である。祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔や庵から出発した。
この縁で関ヶ原の合戦で敗北した三成は六条河原で斬首された後、遺体が三玄院の沢庵宗彭に引き取られ、三玄院に埋葬された。ここには大徳寺内部の派閥争いを見る立場もある。古渓派と春屋宗園派の対立である。古渓は利休と近く、春屋は石田三成と近い。後に沢庵が大徳寺第一五四世住持になったが、三日で辞めた。ここには政治への嫌気があるだろう。
一方で大徳寺の持つ反権力的姿勢がより重要である。大坂夏の陣で豊臣方に内通した嫌疑で切腹した古田織部の墓も三玄院にある。豊臣政権の権力闘争では弾圧される側に立ったが、徳川政権でも弾圧される側に立った。
因みに三成と共に三玄院を創建した森忠政は美作国津山藩の初代藩主となった。津山藩は城下町を整備し、元和三年(一六一七年)には林田町ができた。林田つながりでは播磨国林田藩の建部氏の墓所は大徳寺芳春院である。芳春院は前田利家夫人・松の法号として有名であるが、その松が建立した。
江戸幕府から見れば謀反人の三成を埋葬した沢庵は紫衣事件でも反骨精神を発揮した。江戸幕府は寛永四年(一六二七年)に後水尾天皇の紫衣着用の勅許を無効とした。これに対して大徳寺元住持の沢庵は大徳寺の僧をまとめ、抗弁書を幕府に提出した。




