仙石秀久と尾藤知宣の明暗
仙石秀久と尾藤知宣は豊臣秀吉の譜代の武将であるが、ともに九州征伐の軍監になり、その際の失策を理由に改易された。秀久は戸次川の戦いで大敗した。知宣は秀久の反省から慎重に徹したが、それが消極的過ぎるとされた。
二人は小田原征伐後に明暗を分けた。秀久は大名として復活し、知宣は殺害された。秀久は小田原の陣に浪人を率いて参陣し、秀吉に帰参が認められた。これに対して知宣は小田原平定後の天正一八年(一五九〇年)七月、下総の古河で秀吉の前に剃髪して現れて赦免を求めたが、激怒した秀吉に斬殺された。
秀久と知宣の大きな相違として、秀久は小田原の陣に参戦し、武功を挙げている。これに対し、知宣は小田原の陣が秀吉の勝利に終わった後で来た。これが秀吉の怒りの理由である。秀久はアウトプットを出している。
また、秀久は徳川家康の陣を借り、家康のとりなしがあった。このように書くと秀久は人脈だけで何とかする世渡り上手のコミュニケーション厨に聞こえるが、そうではない。むしろ、秀吉は天下人の立場から過去の友達感覚で話すコミュニケーション厨を嫌った。
秀久は空気を読まずにストレートに物言いする人物であった。信州小諸の大名に認められた際も、旧領の讃岐の大名にして欲しいと主張している。何で殺されないか傍から見ていて不思議である。譜代の主従の絆では説明がつかない。
仙石秀久は関ヶ原の合戦では東軍に属した。三国一の臆病者と笑われた秀久が味方することは家康にとって自信を持てるものであった。強大な敵に逃げ出した過去を持つ秀久が味方をするということは、家康を強いと認識しているためである。石田三成が憎いという理由で東軍に属する武将よりも心強いだろう。当初想定していた敵は石田三成であったが、毛利輝元ら大老や奉行の多くが西軍になり、豊臣家の正統性は西軍にあった。
秀久は豊臣恩顧の大名ながら徳川家康や秀忠に大事にされた。そこには信州小諸藩五万石という小藩であることも影響しているだろう。何十万国という大大名では隙あれば改易されるだろう。
尾藤知宣は最後には腹をくくって秀吉に直言した。
「あなたは某と同じです」
「何を言っているのか」
「あなたには、この国を治める器量がないと申しています」
「何だと!」
「某は自分が無能なことを自覚しているからこそ、こうしてここにいるのです」
「貴様……」
知宣の言葉は正しかった。秀吉は確かに有能だった。だが、それはあくまでも豊臣政権という枠組みの中での話だ。知宣の武人としての能力は決して高くない。いや、低いと言っていいだろう。
「このままでは御家は高転びします」
「馬鹿を言うな」
「滅びますよ。私の見立てでは五分といったところでしょう」
「そんなはずはない! ワシは負けたことなど一度もなかったぞ」
「ならば聞きましょう。何故、勝てたのです?」
「そ……れは……」
「答えられぬでしょう。それが現実というものなのです」
知宣は淡々と事実だけを述べた。そして、その言葉を聞いた瞬間、秀吉の顔色が変わった。
「黙れ! それ以上言うと殺すぞ」
「殺せばよろしい。私はもう死んでいますし、今さら惜しむ命でもない」
「くっ……」
秀吉は歯ぎしりした。知宣の言葉は真実であったからだ。
「お主ら! こいつを皆殺しにせよ!」
秀吉の命令を受けて、兵士たちが一斉に槍を構えた。
秀吉は小田原征伐後に有力大名の力を削ぐために国替えを行った。徳川家康を北条氏の領地、織田信雄を徳川家康の領地に移した。一般に家康は耐え難きを耐えて従ったとされる。一方で積極的に江戸開発に取り組んだ面もある。
信雄は秀吉の命に従わず、取り潰された。信雄に仕える織田長益は意地を通す。長益は堅苦しいのは嫌いと主張する。たとえ自分の好きな南蛮趣味でも、それだけが強制される世界は好まない。ここには自由を好む人物の筋がある。長益は出家し、織田有楽斎が誕生する。




