黒田官兵衛は自由侵害を抗議したい
秀吉は九州平定後に黒田官兵衛に豊前国一二万石を与えた。官兵衛の手元には与えられた権威と責任を示す朱印状があった。
官兵衛の側には、忠臣達が付き従っていた。忠臣達は、主が秀吉から一二万石の領地を授けられたことに歓喜しつつも、その理由について憶測めいた話を耳打ちし合っていた。
「この地を与えられた理由は何なのでしょうか?」
忠臣の一人が官兵衛に控えめに尋ねた。官兵衛は微笑みながら答えた。
「それは分からぬ。しかし、三つの説があるという。まず、この地はまだまだ不安定で難しい地であり、他に治められる者がいないと判断されたのだという説。次に、秀吉公が私の野心と才能を危険視して、この地に遠ざけたという説。そして最後に、私が切支丹大名であり、伴天連追放令で衝突し、険悪になって遠ざけられたとする説だ」
第三の説は独裁者の内心の自由の侵害に対する抗議である。
「個々の信仰にまで口を出すなど、天下人の行いに非ず。斯様な沙汰は下々を縛る無法と言わざるを得ませぬ」(吉川永青『治部の礎』講談社、2016年、124頁)。
忠臣達は興味津々の表情でそれぞれの説を検討した。
「それならば、どの説が一番信じられると思われますか」
もう一人の忠臣が尋ねた。官兵衛は深く考え込んでから、ゆっくりと口を開いた。
「私にもそれは分からぬ。しかし、私は自由な信仰を持つ者たちを縛ることはできぬと考えているのだ。どの説が真実であれ、私はこの地で、人々の自由を尊重し、共に築いていくことを誓おうではないか」
忠臣たちは官兵衛の言葉に敬服し、新たな時代の幕開けを感じた。
秀吉は小早川隆景には九州平定の恩賞として筑前と筑後と肥前一郡を与えようとした。これは恩賞というプラス面だけでなく、有能な隆景を毛利家から引きはがし、秀吉の直臣とする秀吉の深謀遠慮があった。
隆景は秀吉の陰謀を見抜いていた。彼は忠義に生き、毛利家への忠誠心を持っていたため、新たな領地や栄誉に対しても複雑な思いを抱えていた。隆景はその恩賞を辞退しようとしたが、その誠実な申し出は受け入れられなかった。
当初の秀吉の計画は筑前と筑後と肥前一郡であった。隆景は肥後を辞退し、筑前・筑後約三〇万石の領主になった。肥後は佐々成政が領主になり、一揆を鎮められずに切腹になった。隆景は先見の明があったことになる。
筑前に足を踏み入れた隆景は、その土地の歴史と文化に敬意を払い、大宰府天満宮の寺領を千石に増やした。太宰府天満宮は安楽寺の末社であり、寺領になる。寺領は宗教的な活動や神社の運営に必要な資源を提供するものである。隆景は太宰府天満宮を重視し、その繋がりを強化することで、地元の人々との結びつきを築こうとした。
しかし、歴史は予測不可能で、隆景の意志は引き継がれなかった。隆景の養子である小早川秀秋が相続すると寺領を七百石に削減した。この決定は、天満宮の運命を大きく変えるものであり、その後の寺社の活動や影響力に影響を及ぼした。秀秋は慶長七年(一六〇二年)に突然死去する。関ヶ原の合戦の裏切りによる大谷刑部の祟りとの声が強いが、それ以前に菅原道真の祟りがあった。
秀吉の側室になった茶々は天正一七年(一五八九年)五月二七日に鶴松を出産する。茶々の子が秀吉の子ではないとの落首が壁に書かれた。激怒した秀吉は、門番を皆殺しにし、罪人を匿ったと決めつけて町を焼き払う。実子への偏愛が秀吉の狂気になる。建部寿徳は鶴松を溺愛する秀吉に距離を感じた。
「子に災いが降りかからなければよいが」
鶴松は僅か三歳で夭折してしまった。




