紀州攻め
秀吉は紀州、四国、九州、小田原と天下平定戦を始める。最初が天正一三年(一五八五年)の紀州攻めである。紀伊半島の山々からは多くの鉱石や木材を得ることができたため、鍛冶や林業などの産業が古くから発達していた。太平洋と瀬戸内海を結ぶ海運に適した土地でもあったため、漁業や貿易業も盛んに行われていた。この経済力を背景として紀州では根来衆や雑賀衆など自治的な勢力が存在していた。
根来衆や雑賀衆は小牧・長久手の戦いでは徳川家康と結び、大坂を攻撃した。家康が兵を引くと、秀吉は大軍を動員して紀州攻略を開始した。
「根来寺を攻めるぞ」
秀吉の言葉に一同の顔色が変った。
「あの寺には鉄砲がある。しかも名銃だそうだ」
「…………」
「だからといって恐れてはいかん。根来寺ごと焼き払ってしまえばよいではないか」
「そんな無茶なこと!」
寿徳が叫んだ。
「何故じゃ? 根来寺にそれほどの価値はない。それに根来寺は高野山とは仲が悪い。どうせ高野の方でも根来寺を嫌っておろう」
「それはそうでしょうが……」
寿徳は口籠ってしまった。根来寺を焼くこと自体に反対するわけではない。問題はその後のことである。
「心配することはないわえ」
秀吉は豪快に笑い飛ばした。
「こっちには十万の軍勢がいるんだ。負けるものか」
「根来寺を焼き払う日時は?」
寿徳がきびきびとした口調で訊ねた。
「明後日だ。明日一日かけて準備をする。それで充分間に合うであろう」
「畏まりましてございます」
「ところでな、寿徳」
「はい」
「根来寺攻めが終わったら、次は高野山攻めになる。先鋒を命じるつもりだ。心してかかるがよい」
「はっ」
「それとな、金悟洞という男を知っておるか」
「さようですな。何度か見たことがあります。腕の立つ忍びだと聞いておりますが……それが何か?」
「そいつは根来寺の坊官の出らしい。根来寺の僧たちも大事にしておるようだし、根来寺と共に焼かれるのは気の毒な気がしてきた。何とか助けてやりたいと思ってのう」
「根来衆を助けても仕方がないと思いますが……まあ、やってみましょう」
(こいつはとんでもないことを言い出したものだぜ)
根来寺の僧達は単なる傭兵ではない。根来寺そのものが一種の宗教組織なのだ。それを救うということは、根来寺そのものを救わなければならないということだった。根来寺は傭兵集団ではないのだ。根来寺の僧は根来寺を守るために戦う。
根来寺の僧達は根来寺を守るためなら喜んで死ねる。根来寺に弓引く者は絶対に許さない。根来寺の僧たちはそういう連中ばかりなのである。それを承知の上で根来寺の僧たちの命を助けるなどとは、正気の沙汰ではなかった。
寿徳も根来寺の僧が嫌いなわけではない。根来寺の僧たちは傭兵集団より遥かにましな人間だと思う。しかし根来寺を救いたいとまでは思わない。根来寺の僧達は根来寺の僧達で勝手にやって貰いたい。
「頼むぞ」
「では早速、根来寺へ行ってみます」
「頼んだぞ」
寿徳が立ち上ると他の者も次々に起立した。
根来や雑賀の平定はあっけなく進む。根来寺や粉河寺は炎上した。しかし、国人領主の湯川直春が予想外に抵抗した。一所懸命の感覚で自己の領地を守る国人は傭兵集団以上にしぶとい。後の太閤検地を踏まえれば国人の抵抗は正しいことになる。不自由な極楽か、自由な地獄かの選択は現代にも通じている。奴隷として生きるか、人間として死ぬかの選択を迫られた場合に後者を選ぶ人間が異常とは思えない。
「これでいいのだ。国人どもも領地を捨ててまで生きようと思うまいよ」
「その通りですなあ」
秀吉は高野山については降伏を受け入れた。
「何故、高野山を攻めない?」
秀次には理解できず、寿徳に尋ねた。
「お分かりになりませぬか」
「分からぬな」
「では申しあげます。高野山は朝廷にとって大事な場所です。攻めれば必ず大騒ぎとなりましょう。徳川も出てまいるかもしれません」
「なるほど……」
秀次はうなった。言われてみればその通りである。




