明智光秀は織田信忠を討ちたい
光秀は本能寺の信長に加え、信長の長男の織田信忠も討ち果たす必要があった。信長は家督を信忠に譲っていた。信長と信忠の二人を同時に討つことが政権奪取の条件であった。本能寺の変は信長と信忠が共に少人数で京にいるという千載一遇の機会であった。
光秀が本能寺を襲撃したことを知った信忠は二条城に籠った。彼には選択が迫られていた。
「信忠様、父上の仇を討つべきです」
「逃げることも考えるべきです。我々が生き残らなければ、家の未来はありません」
信忠は逃げずに自害した。信長と後継者の信忠の二人が討ち死にしたことは織田家にとって大打撃になった。信長と異なり、信忠は逃走が不可能ではなかった。これは信忠の危機に際しての行動力のなさと批判される。もっとも信忠は生き延びたとしても有力家臣を制御できず、父親の恨みを一身に浴びたかもしれない。
織田長益と前田玄以は夜の闇に紛れて城を脱出し、逃げ延びることができた。長益は信忠に自害を勧めて自らは脱出したとされ、以下のように「人でなし」と批判された。
「織田の源五は人では無いよ、御腹召せ召せ召させておいて、我は安土へ逃ぐるは源五、六月二日に大水出て織田の原なる名を流す」
しかし、有楽斎には有楽斎の言い分があった。「冗談ではない。謀反を起こされたのは、兄の落ち度だ。その巻き添えを食って死ぬなど御免だった」(天野純希『有楽斎の戦』講談社、2017年、28頁)。有楽斎にとって本能寺の変は、むしろ解放された気持ちになるものであった。
茶人と言えば千利休や古田織部のように生命をかけて権力者に抗った人物が知られている。一方で長益や荒木村重のように生に執着する人物もいた。両者は相反するのではなく、茶の湯のためには死ねるが、武士の誇りのためには死なないということだろう。
博多の豪商の島井宗室も本能寺の変に遭遇した。宗室は天下三肩衝の一つである茶器の楢柴肩衝を所有していたが、織田信長に献上するために上洛していた。本能寺の変が起きたために楢柴肩衝を手放さずに済んだ。
宗室は民間感覚を持った人物であった。「宗室は何物も生み出さない武士を心から憎み、同時に商人である己に誇りを抱いていた」(天野純希『有楽斎の戦』「宗室の器」50頁)
千利休は権力と戦った茶人として名高いが、宗室の方が民間感覚が徹底している。「権力者のために茶を点て、名物を鑑定し、茶器に序列を付けるという行いが、宗室にはどうしても認めがたかった」(天野純希『有楽斎の戦』「宗室の器」54頁)
この時代の豪商には権力者と持ちつもたれつの死の商人という側面を持つ者が多かったが、それを宗室は否定する。「戦で得た利など、泡のようなものだ。膨れるだけ膨れ上がり、すぐに弾けて消えてしまう。そしてその代償として、想像もつかないほどの人々が海の向こうで命を落とす」(天野純希『有楽斎の戦』「宗室の器」64頁)
商売の仕方も規制と特権を否定する自由主義思想を持っている。「商いの特権を持つ座を廃し、船が入る際の税である津料も免除すれば、さらに人と物が集まってくるだろう」(天野純希『有楽斎の戦』「宗室の器」77頁以下)。官僚主導経済よりも健全である。




