長宗我部元親
本能寺の変の背景には四国政策説がある。これは長宗我部元親の四国統一を認める方向で明智光秀が取り次いでいたものを織田信長が反故にし、阿波や讃岐の領有を認めなくなった問題である。
戦国時代の四国は中小規模の戦国大名が領土を巡ってしのぎを削っていた。その中で長宗我部元親が四国の覇者になった。元親は土佐の領主の若君であったが、色白で物静かな少年だったため、「戦知らずの姫若子」と呼ばれ、侮られる日々を過ごしていた。しかし、それは才能を隠す擬態であった。これは「うつけ」の織田信長に重なる。
元親は土佐を統一し、次の目標を四国統一と定めた。
「長宗我部家は秦の始皇帝の末裔である。土佐一国の主で終わるのは亡き父の本意ではない。南海(四国)の王となりたい」
讃岐国や阿波国は三好氏の勢力圏であった。三好氏は畿内で織田信長と対立していた。三好氏が室町将軍足利義輝を殺害し、信長は義輝の弟の義昭を奉じて上洛した。元親は明智光秀の仲介で織田信長に申し入れた。
「四国で三好氏を討伐します。四国切り取り勝手の許可を下さい」
「土佐一国を統一した田舎大名が鳥無き島のコウモリを気取っているな。良いだろう」
信長は笑って許した。
元親は天正六年(一五七八年)に讃岐国に侵攻した。香川之景とは和睦条件を結び、次男の長宗我部親和を養子として送り込み、香川親和と名乗らせた。
元親の強さは一領具足の兵士を編成したことにある。一領具足は半農半武の兵士である。突然の召集に素早く応じられるように、農作業をしている時も、常に一領の具足(武器と鎧)を田畑の傍らに置いていたことから一領具足と呼ぶ。
一領具足は信長の職業軍人政策とは一見すると真逆に見える。その後の歴史から遡って見ると一領具足は後進的な制度に見えるかもしれない。しかし、一領具足は単なる半農半武ではない。農作業中でも即座に出陣できるように武器と鎧を準備しており、戦争に集中できるように最適化されている。
信長の兵農分離を職業軍人政策と見ることは現代の公務員感覚のバイアスがある。信長の思想は「合戦のないときは、足軽どもに、荷を運ばせ、銭を稼がせる」ものであった(山本兼一『雷神の筒』集英社文庫、2009年、152頁)。信長の兵農分離は民間感覚にあふれたものであった。この点で一領具足と、それほど離れたものではない。
元親の躍進は信長の躍進と重なるところがある。しかし、当の信長からは「鳥なき島」の蝙蝠と低い評価であったことは皮肉である。信長の本質は中世的な体制を壊す近世大名であり、中世的な要素の強い長宗我部家を高く評価できなかったのだろう。しかし、この長宗我部軽視は本能寺の変の要因になり、信長の痛恨事になった。
元親にしてみれば他人からの評価が上がろうと下がろうと構わなかった。元親は地域で自立した領国を目指した。この点は毛利元就と似ている。天下人を目指す織田信長や羽柴秀吉とは相容れない。この地域で自立するという姿勢は好感が持てる。ひたすら右肩上がりの成長を目指す姿勢とは対照的である。もっとも、四国内の他の領主から見れば元親は侵略者であるという矛盾はある。




