明智光秀の動機
本能寺の変は日本史最大のミステリーである。明智光秀の動機や黒幕の有無などについて諸説が議論されている。様々な説があり、定説はないに等しい状況にある。光秀が謀反を起こした理由はいくつかある。中世の武士は御恩と奉公の関係にあり、家臣は自分達の領地が保障されるから主君のために戦う。武士は親方日の丸の公務員ではなく、一城の主として領地を経営したい。その自分達の基盤さえ破壊しかねない信長の異常性(肯定的に評価すれば革新性)への恐怖感が根本原因である。
信長は中世の日本において異質な存在であった。信長という人物は、当時の常識では理解できない行動をとることが多かった。例えば桶狭間の戦いにおいて今川義元を奇襲で討った時も、事前に織田方へ内通していた武将がいた。しかし、信長はそれをまったく無視して、敵将を討ち取った功績を独占した。これは当時としては極めて異常なことである。
信長は弟の信行と家督争いをしたために冷酷なイメージがあるが、実は身内に甘かった。実際、信長は信行の息子の信澄を一門として重用していた。身内に甘い信長の姿勢は、自分の領地を確保し、そこでの安定を求める家臣の不安を招いた。封建制度は家臣に無制限の忠誠を要求できるものではない。本領安堵は主君による家臣への約束である。この点が強大な将軍権力を持ちながらも安定した江戸時代との差異である。
光秀には土岐氏の美濃など一族故地での再興という理想があった。光秀は愛宕百韻で「時は今 雨が下しる 五月哉」と発句しており、土岐氏を意識していた。ところが、信長は重臣を遠国に転封する姿勢を示した。光秀は丹波国と近江国志賀郡を領地としていた。ところが、中国地方の毛利攻めに際しては、丹波国と近江国志賀郡の領地を召し上げ、まだ敵国である出雲国と石見国を切り取り次第とされた。これにより、一族故地での再興は絶望的になった。
光秀の動機には光秀が朝廷や室町幕府、寺社など旧来の権威を大切にしたが、それを信長が破壊しようとする説がある。ここから朝廷や足利義昭黒幕説も出てくる。しかし、光秀は信長の政策の忠実な実行者であった。故に信長から評価され、出世した。光秀を朝廷や室町幕府、寺社の利益代表と見ることは苦しい。
これに対して、室町幕府の守護大名・土岐氏の利益代表ならば自然である。室町幕府は守護大名の連立政権の色彩が強く、守護大名は室町将軍の臣下ながら自立的傾向が強かった。将軍と対立した守護大名は数多い。守護大名は領国支配を強化する中で朝廷や寺社の荘園とも対立した。信長が朝廷や室町幕府、寺社の権威を否定しても、光秀の危機ではない。
一方で信長が家臣の領地を勝手に召し上げ、遠国に転封することは、光秀の危機である。一生懸命の語源は一つの土地を守る「一所懸命」であり、中世的な武士は土地に密着した存在であった。一族故地での土岐氏再興にこだわることは、当時の武士にとって自然である。近世の大名鉢植え政策以前の本来の武士の姿がある。
一族故地での再興という動機は、本能寺の変後の光秀が生彩を欠いたことの説明にもある。光秀にとって重要なことは、一族故地での再興という地域課題であって、天下ではなかった。これが能力的には決して劣っていなかったものの、天下人となる秀吉との勝敗の差になったのだろう。
さらに信長の家臣達が光秀に味方しなかったことも、土岐一族のための謀反ならば納得できる。本能寺の変は守護大名による室町将軍への謀反と性質が類似するものかもしれない。本能寺の変後は、光秀に味方すると思われた与力大名の細川氏も味方しなかった。一族故地にこだわる光秀と、江戸時代には九州の大名になる細川氏の価値観の相違がある。
光秀の裏切りは信長を裏切った武将に共通したものだった。松永弾正も一般には上手に立ち回った人物と見られるが、信長にこき使われ、利用されるだけ利用された面がある。信長を裏切らなければやっていけないところだろう。平蜘蛛の茶釜を抱えて自爆したエピソードは彼の意地を示している。




