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林田藩  作者: 林田力
建部寿徳
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武田勝頼は郡内に退避したい

勝頼は本拠を甲府から新府城に移していた。信玄は「人は城、人は石垣、人は堀」と言った。しかし、人を守るためにも城は有効である。「人は城」は人材を大事にしているようでいて人材を使い潰すものである。

「新府城に籠城して織田軍を迎え撃ちましょう」

勝頼嫡男の信勝が主張した。しかし、新府城は作りかけの城であり、籠城戦は心もとなかった。このため、新府城を捨てて別の拠点に退避して籠城戦を行う方針となった。

「某の甲斐群内の岩殿城で迎え撃ちましょう」

小山田信茂が主張した。

「某の上野岩櫃城ならば二年でも三年でも戦えます」

真田昌幸が主張した。

勝頼は信茂を選択した。この理由には以下の見解がある。

第一に譜代重臣の小山田を信濃国衆の真田よりも信頼したとする。しかし、勝頼の母は信濃の諏訪氏である。勝頼自身に甲斐・信濃差別の感覚はないだろう。この説が成り立つならば勝頼本人ではなく、周囲の意向になる。

第二に浅間山噴火である。これにより上野国への退避が物理的に困難だった。

第三に勝頼は甲斐国での迎撃戦を諦めていなかったとする。織田勢を甲斐国に一旦引き入れ、信濃の軍勢と挟撃することで殲滅を狙った。甲斐国は山がちであり、地の利を得ることで大軍を殲滅させることも可能である。


勝頼一行は郡内に向かったが、信茂は土壇場で裏切った。孤立した勝頼は織田方の滝川一益の軍勢と天目山で戦い、三月十一日に死亡した。これにより戦国最強と言われた武田氏は滅亡した。

第一説に立つと信茂に裏切られた勝頼は人を見る目がないとなる。しかし、第二説や第三説を考えると郡内への退避は妥当な選択肢になる。

かつては第一説が有力だった。第一説は生き残った真田昌幸に宣伝された面があるだろう。昌幸は武田滅亡後に織田信長に服属した。服属の後ろめたさを正当化するために勝頼が自分を選ばなかったことを強調した。また、勝頼が上野岩櫃城に来ていれば二年でも三年でも戦い続けられたと言うことで自分の武勇の宣伝になる。


織田勢は武田家の残党狩りを行い、多くの家臣を討ち取った。小山田信茂も土壇場で裏切った不忠を攻められ、殺害された。信茂は自分の命と引き換えに領内不犯を主張し、それは認められた。領内を戦火から守った。とはいえ土壇場の裏切りは印象が悪い。


織田勢は武田滅亡の祝宴を開いた。

「武田家を滅ぼしたのは織田家です」

徳川家康が発言し、諸将の賛同を得た。家康は織田家の強さ、恐ろしさを持ち上げる一方で、武田の旧家臣達を厚遇した。武田氏は家康にとって最大の脅威であったが、同時に魅力的な戦力に映った。

「我らも骨を折った甲斐がござりました」

明智光秀が述べた。これに対して信長は激怒した。

「光秀、うぬが何をしたというのか」

信長は光秀を折檻した。光秀は二月九日で信濃への出陣を信長から命じられ、三月四日に出発した。このため、直近の戦いでは大した貢献をしていない。しかし、長篠の合戦など、それ以前からの取り組みがある。光秀は今回の戦いで自分が手柄を立てたと述べていない。長年の骨折りを述べたものであり、信長の怒りは的外れである。信長は総大将にした信忠の成果を強調したかったのだろう。

これは光秀の遺恨となり、本能寺の変の原因の一つとなった。理不尽な折檻に加えて、二代目の信忠のために邪魔になりかねない有力家臣達を追いやる方向性を感じたことが大きいだろう。

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