織田信忠は甲州崩れを起こしたい
長篠の合戦後に勝頼は武田家の立て直しに邁進する。信濃国衆の真田昌幸が勝頼のブレーンになった。昌幸は陰謀家イメージが強いが、この時点では真面目に国作りを進める人物である。
武田家は財政的に困窮した。
「しかし、甲斐には金山がある」
昌幸は、甲斐に眠る莫大な金銀に目をつける。
「金があれば、民を飢えさせずに済む」
しかし、昌幸は各地の領主層の気持ちを考えず、反感を抱かれる。石田三成的なところがある。昌幸は武田家滅亡後に自立し、権謀術数に長けた人物になる。
勝頼は嫡男の信勝にも期待していた。
「奮戦せよ」
「はい!」
信勝は父の期待に応えようとした。彼は武田家の血を引いているだけあって優秀な武将である。
「お任せください! 必ずや織田軍を撃退いたします!!」
勝頼は無能ではなかった。むしろ、新しい時代に積極的に適応しようとした。時間が足りなかったことが敗因である。武田氏は守護大名から戦国大名になった。守護大名の基盤や権威を活用できるが、その分、古い体質が残存している。そこは改革しなければならないが、改革には反発が出る。その反発を織田信長や徳川家康は利用し、武田家は崩壊していった。
武田家の滅亡は「偉大な信玄、父親には及ばない勝頼」と説明されがちである。しかし、最近では信玄の時点で無理があり、勝頼は押しつけられた被害者という視点が有力になっている。そもそも甲斐国(山梨県)を本拠地として戦国最強の軍団に成長させること自体が至難の業である。戦国シミュレーションゲームをしてみれば難しさが分かる。甲斐国の金山パラメータが余程高くなっていないと難しいだろう。
信長は天正一〇年(一五八二年)、織田信忠に武田攻めの総大将を命じる。信長にとって武田家は邪魔者以外の何物でもない。信長は武田家を滅ぼせば、武田家が保有していた領地を丸ごと手に入れることができた。
「必ずや甲斐国と信濃国を手に入れてご覧に入れましょう」
信忠配下の家臣達にとって今回の戦は非常に魅力的なものに映った。
「しかし、今度の戦は我らのみでやるのか?」
「いや、どうも武田は本気で勝てると思っているらしい」
「……馬鹿な奴らだ」
「まったくだ。だが、これで勝てば一気に名が上がるぞ!」
「ああ! 俺達の実力を見せつけてやろうぜ!!」
こうして彼らは士気を高めていく。そして出陣の準備を整えた。
武田家はもう後がなかった。家臣の士気は最悪であった。譜代の家臣達ですら離反する状況であった。二月一日に木曾の木曾義昌、一四日に信濃松尾の小笠原信嶺、二五日に駿河江尻の穴山梅雪が裏切った。勝頼にとって不幸なことに二月二四日に浅間山が噴火した。この浅間山噴火は天も勝頼を見放したと領民や家臣から受け止められた。
「武田家は信玄公の代までは強かった。だが、信玄公の死後、武田家の力は弱まった。武田家はもはや終わりだ」
このように考える者が続出した。




