佐久間信盛追放
徳川家で天正七年(一五七九年)に築山殿事件が起きる。徳川家康と築山殿の嫡男の信康は織田信長の娘の徳姫と結婚した。築山殿は今川義元の重臣の娘であり、信長は仇敵であった。信康も母親の影響を受けており、徳姫とうまくいっていなかった。徳姫は信長に「築山殿が武田勝頼と内通している」と訴えた。この結果、家康は築山殿と信康を殺害した。
築山殿事件は誰が主導したかで意見が分かれる。
第一に信長主導で行われたとする見解がある。これは武田家への内通を事実とするか冤罪とするかで分かれる。冤罪説は、信長は自分の息子よりも器量のある信康を脅威と感じて殺害を命じたとする。
第二に家康主導で行われたとする見解がある。徳川家内部で浜松衆と岡崎衆の内部抗争が起きており、家康が戦国大名として統一的な権力を確立するための粛清とする。
第三に家康の重臣の酒井忠次陰謀説がある。家臣に支えられて成長した家康と異なり、信康は生まれながらの戦国大名の息子であった。君臣関係が変わることを恐れた忠次が信長に讒言したとする。
信長は天正八年(一五八〇年)、本願寺顕如と講和する。顕如は石山本願寺を退去した。石山本願寺は信長を最も苦しめた敵であった。
「これ以上戦うことは無意味だ」
このまま石山本願寺に籠城していても勝てる見込みはない。ならば少しでも可能性のある方に賭けるしかないではないかと考えての行動であった。
信長は石山本願寺戦の後に本願寺攻めの総大将だった重臣の佐久間信盛を追放した。信長は信盛に一九カ条からなる折檻状を突きつけ、無能の烙印を押した。
「信長代になり、三十年奉公を遂げたるの内に、佐久間右衛門、比類なき働きと申し鳴らし侯儀、一度もこれあるまじき事」
折檻状では信盛には比類ない働きが一度もないと言い切っている。信長の動機には様々な見解がある。
第一に信盛が石山本願寺攻めで無理を避けたことを無能とする。信長は失敗以上に無為を嫌い、無能公務員的な体質をもっとも嫌っていた。しかし、信盛は「木綿藤吉、米五郎左、懸かれ柴田に、退き佐久間」と言われたほどの名将である。退却戦の名手であり、被害を少なく巧みに逃げることが巧みであった。Fail Fastの現代ビジネス感覚にも重なる。信盛は情報収集を重視する。それも自分が動かずに情報を集める。この点もインターネット時代のビジネス感覚と親和性がある。
古来より撤退戦は最も難しいとされる。ビジネスでも不採算部門からの撤退、投資でも損切りが難しい。特に日本人を集団として見ると、イケイケドンドンで前に進む楽観論に支配され、理知的な判断が不得手である。
第二に信盛に落ち度はなく、古い重臣の勢力を削ぐために信長が言いがかりをつけたとする。撤退戦の名手の信盛が無能とは思えず、信盛の追放は信長の横暴や傲りと見られがちである。
第三に信長の革新性に信盛がついていけなくなり、自ら辞めることを望んだとする(梶川卓郎『信長のシェフ』)。信盛は本願寺との戦いの陣中でも茶の湯を好んでおり、楽になりたいという思いがあったかもしれない。
第四に信長は拠点にするため、石山本願寺を無傷で手に入れたかったが、炎上させてしまったことを落ち度とする(山本兼一『雷神の筒』集英社文庫、2009年)。この説では無理に力攻めをしなかったことは無能ではなく、むしろ信長の意図通りになる。




