長島一向一揆
織田信長の敵は多く存在するが、その中の最大勢力が一向一揆であった。信長は一向宗などの仏教勢力を嫌っていた。日本人には多神教は寛容という思い込みがあるが、仏教も異なる宗派や宗教を排斥することはある。現代でもミャンマーやタイでは原理主義的な仏教徒が少数派のムスリムを抑圧している。
信長は天正二年(一五七四年)、長島一向一揆を根切りにした。病人や老人などの非戦闘員も虐殺された。鉄砲による虐殺によって戦争の性質が変わりつつあった。織田家中にも残酷な戦争の実態に動揺が走る。古い戦では有能な柴田勝家や佐久間信盛に代わって、明智光秀や羽柴秀吉の台頭を予感させた。
「まさか、これほど早く長島が陥落するとは……」
顕如は本願寺で頭を抱えた。
「申し訳ございません!全て私の失態です」
本願寺坊官の下間頼龍が平伏する。この頼龍の娘は後に寿徳の息子の建部光重に嫁ぐことになる。
「もうよい。お前を責めても仕方がないことだ」
「しかし!」
「それよりも問題はこれからどうするかだ」
「はい……このままでは我らもいずれ降伏せざるを得なくなりますぞ」
「うむ。だが、織田と和睦など出来ぬしなぁ」
信長とは戦端を開いたばかりである。和睦に応じる筈がない。
「ならばいっそ、こちらから攻めてみるのはいかがでしょうか?」
下間頼龍の言葉に顕如は目を見開いた。
「何?本気で言っているのか?」
「はい。もはや門徒達を抑えることはできませぬ。これ以上抑えれば一揆が起こりましょう。それならいっそのこと……」
「なるほど……」
本願寺としても長島一向一揆で多くの門徒を失ったため、これ以上失うわけにはいかないという事情もあった。それに長島での戦いで兵糧や武器弾薬を大量に消費している。補給の問題もある以上、長期戦は避けたいところだった
「よし!やってみるか……」
「はい。私にお任せいただけませんか?」
「よかろう。好きにせよ」
信玄没後の武田家は勝頼が陣代(当主後見人)となった。武田家は依然として強勢を誇った。徳川家康は武田勢の侵攻を食い止めようと奮戦したが、多勢に無勢であった。そのバランスを変えた戦いが天正三年五月二一日(一五七五年六月二九日)の長篠の合戦である。
織田・徳川連合軍が武田勢を迎撃した。織田・徳川連合軍は陣地を築いた。武田勝頼が後先考えずに功を焦って撃って出たことが敗因である。攻めた側が負けることは後の賤ケ岳の戦いでも小牧・長久手の戦いでも繰り返されている。
長篠の合戦は鉄砲の三段撃ちが有名である。定説では武田の騎馬隊が鉄砲隊に突撃して崩壊したとする。これは第二次世界大戦の学習しない日本軍のバンザイ突撃のアナロジーとして教育的効果がある。
三段撃ちは信長の独創ではなく、既にヨーロッパで採用されている戦術だったとする見解がある。優れた戦術を採用する柔軟性こそが信長の強みである。長篠の合戦では三段撃ちはなかったとする見解がある。
武田勢の先鋒は真田信綱・昌輝兄弟である。
「おおお!」
叫びながら、槍を振り回しながら織田勢の仙石権兵衛秀久の陣に突進する。仙石勢が慌てて矢を放つが、鎧兜で弾かれる。そのまま敵陣に突入した。
「うわあああ」
悲鳴が上がる中、真田兄弟はさらに追撃をかける。
「進め! 続けえええい!!」
叫ぶ声とともに、槍を構えた足軽達が突き進む。
「退けーっ!! 退くんだああっ!!!」
その勢いに気圧されたのか、あるいは恐怖を感じたか仙石秀久が叫んだ。しかし、もう遅い。すでに本陣まで入り込んでいた兵たちは、逃げる敵を容赦なく切り伏せた。
真田信綱は逃げる秀久を「三国一の卑怯者」と罵る。後の戸次川の戦いと重なる。この敗走は織田信長にとって織り込み済みであり、むしろ捨て石にするという非情さの結果である。生き残っただけでも上等である。
仙石秀久の陣を打ち破った真田兄弟に織田の鉄砲隊が待ち構えていた。真田兄弟は鉄砲の一斉射撃で戦死した。長篠の合戦で信綱・昌輝兄弟が戦死しなければ真田昌幸が家督を継ぐことはなかった。大坂の陣の真田信繁(幸村)の活躍もどうなったか分からない。仙石氏と真田氏は因縁がある。江戸時代になって、真田氏は本拠の上田から転封になり、代わって仙石氏が上田に入った。




