室町幕府滅亡
信長は武田信玄という強敵と正面から戦うよりも、足利義昭や浅井・朝倉氏という包囲網の弱い部分を潰すことに注力した。信長は元亀三年(一五七二年)十二月に足利義昭に異見十七ヶ条を出す。義昭が朝廷への参内を怠っているなどと非難した。元亀四年(一五七三年)七月には義昭を京都から追放した。
「将軍様は京の都から追放されてしまった」
「そうか……」
寿徳には、それが何を意味するのか理解できた。室町幕府の滅亡である。厳密には足利将軍の滅亡ではなく、この後も義昭は亡命先の鞆で将軍として活動する。これを鞆幕府と定義する学説もある。しかし、室町幕府が終わったことは間違えない。
「ここまで状況が変わるなんてね……」
「ああ。予想外でした」
「どう思う?」
「ただ言えることは一つだけだ」
「なによ?言ってみて」
「某は今、猛烈に感動している。このような凄い時代に生まれたことが嬉しくてたまらない」
寿徳は守護大名の六角氏を見限った。その守護大名の仕える室町幕府も滅亡した。
「これからが楽しみだ」
寿徳の顔は無邪気だった。
信長は武田信玄の死により、朝倉攻めに注力できるようになった。柴田勝家を先鋒とする織田軍は天正元年(一五七三年)八月十八日に一乗谷を攻略する。
一乗谷は住戸毎に便所があるなど先進都市であった。北ノ京の呼称は伊達ではない。朝倉義景は名門意識からの根拠のない驕りが滅亡を招いたと語られることが多い。しかし、先進都市ならば織田信長を成り上がりの田舎大名と侮ったことは、むしろ常識的な結論であったかもしれない。
一乗谷では経済発展に応じて武家地の一部を商家に明け渡していた。役所が一等地を占め続ける現代日本は中世以下と言えるだろう。特に一乗谷のある福井県は県庁が福井城の本丸にある。県庁に行くためには堀に架けられた橋を渡ることになる。一乗谷は谷の入口に城戸を設け、町人地も含めて町全体を守護する城塞都市であった。これに対して現代の福井県庁は自分達が守られればよいという公務員感覚の反映だろうか。
朝倉義景は一乗谷を捨てて落ち延びるが、抵抗を続ける効果も長生きする効果もなかった。家臣の裏切りで殺されてしまう。一乗谷で防衛戦をした方が良かったのではないか。後詰めのない籠城戦には未来がないとされるが、落ち延びるだけにも未来はない。小谷城に籠る浅井家よりも朝倉家が先に滅亡することになった。これにより信長は越前を支配下に収めることに成功した。




