徳川家康は三方ヶ原で戦いたい
武田軍の侵攻に対して本多忠勝は一言坂の戦いで奮戦した。この忠勝の奮戦は「家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八」と歌われた。
信長は佐久間信盛を家康救援のために派遣するが、武田信玄と正面から戦うには少ない兵力であった。家康は浜松城を出て、武田勢と戦う。通説は、信盛ら織田勢は籠城を主張したが、武田軍の素通りに怒った家康が出陣したとする。
これに対して少数説は信長も大軍を率いて浜松城の後詰めに出陣したとする。信玄は直接信長の攻撃に向かい、織田勢を救援するために家康は出陣した。信盛らは織田の本隊を救援するために家康の出陣を求め、逆に家康が出陣しなければ織田への裏切りとみなされる状況であった。家康にとっては無謀ではなく、やむにやまれない出陣となる。
「武田と徳川では規模が違う」
「だが、我らは負けぬ」
「そうだ! 勝てる!」
「勝てない戦はしないものだぞ?」
「……何だと!?」
「貴様らには本気で勝つつもりがあるのか。そう思えないな」
「…………」
「勝ち目が薄い戦いをするのは愚か者よ」
「…………」
「どうした? 答えられぬか?」
「…………」
「仕方がないのう。わしから話してやろう」
「え?」
「?」
「実はな、この戦は既に負けている」
「は?」
「?」
「どういう意味じゃ?」
「言葉の通りだ。既に勝敗は決している」
「そんな馬鹿な」
「嘘を言うでない」
「本当だよ。お前達はまだ気付いていないだけだ」
「何を言っているんだ」
「そうじゃ! まだ戦は終わってないわ」
信玄は三方ヶ原の戦いで徳川・織田連合軍を一蹴する。家康は薄く左右に広がる鶴翼の陣を敷いたが、信玄は魚の鱗のように中央を前方に突き出した魚鱗の陣で打ち破った。後の関ヶ原の合戦では逆に家康の東軍が魚鱗の陣に近く、西軍が鶴翼の陣に近い。三方ヶ原の合戦を反面教師にしたのだろうか。
三方ヶ原の戦いで家康は本多忠真や夏目広次らの家臣を失った。織田の援軍からも平手汎秀が討ち死にした。強さを見せつけた信玄であったが、浜松城は攻めなかった。浜松城を攻めると時間がかかり、信長の軍勢と挟撃されることを恐れた。信玄は野田城を攻略するが、病気が悪化し、元亀四年四月一二日(一五七三年五月一三日)に亡くなり、武田の行軍は止まった。
もし信玄が健在だったら、信長は岐阜や京都を捨て武田を上洛させることを考えていた。信玄を京都に一旦入れた上で、京都と甲斐の長大な補給線を寸断し、武田を追い詰めるという長大な構想を描いていた。
「京は重要な拠点だ。しかし、京を抑えることは経済的にも兵力的にも負担だ。信玄を上洛させ、そこでの補給線を断つことで、信玄を追い詰める」
「信玄を京に入れ、甲斐と京を繋ぐ長大な補給線を断ち切るという計画、非常に魅力的です」
明智光秀は信長の構想を支持した。実際、太平記の時代は京都を抑えることが逆に重荷になり、勢力の入れ替わりが頻繁に起きていた。信長の戦略は理に適っている。持たざる経営によって強さを発揮する。「選択と集中」という二一世紀のビジネス感覚にも通用する。




