小栗忠順
林田藩ゆかりの幕臣に江戸幕府勘定奉行・小栗上野介忠順がいる。林田藩八代藩主・建部政醇の娘・道子と結婚した。大変な愛妻家だった。政醇の別の娘・はつ子は旗本の蜷川親賢に嫁いだ。
林田藩は小藩ではあるが、その格式は高かった。林田藩は元々、外様大名池田氏の支藩的な存在である。外様大名と直参大名は鍵屋の辻の決闘に見られるように対立関係にあった。しかし、林田藩は幕府や旗本と協調し、譜代大名化した。幕府も三河以来という建前に固執せず、有能な大名を受け入れていた。
林田藩は財政改革に熱心に取り組み、幕府の財政再建に協力した。このため、林田藩は旗本からの評判は良かった。林田藩は人材登用制度も改革した。それまでは、家格の高い者しか出世できなかったが、能力のある者は身分に関係なく取り立てられるようにした。また、武士以外の者も登用されるように改めた。
忠順は文政一〇年(一八二七年)六月二三日、小栗忠高の息子として生まれた。幼名は剛太郎。小栗家は二千五百石の旗本で、屋敷は神田駿河台にあった。忠順は小栗家の屋敷で生まれ、育つ。早熟、雄弁で幼少時は、天狗と呼ばれていた。忠高は、忠順を自慢の息子と周囲に言っていた。
八歳の時に小栗家の屋敷内にあった朱子学者の安積艮斎の私塾・見山楼に入門した。艮斎は朱子学者であったが、陽明学など他の学問も摂取した。外国事情にも詳しく、海防論の論客でもあった。艮斎の門人には吉田松陰や清河八郎らがいる。
忠順は道子と結婚する前から林田藩とは交流があった。一四歳の時、建部政醇を訪れた。
「お久しゅうございます。建部様」
「おお!これは、これは、小栗殿ではないか!」
「ご無沙汰しておりまする」
「うむ。息災であったかな?」
「はい。なんとか元気でやっておりまするよ。しかし、このままでは、いずれ列強諸国によって清国は征服されてしまいますぞ。そうなれば、日本もただじゃすみませんなぁ……」
「小栗殿のおっしゃる通りだ。我が国も列強諸国の植民地化を免れないであろう」
政醇は腕組みをして、ため息混じりに答えた。幕末になると尊王思想が高まるが、林田藩の行動原理は決して尊皇攘夷ではなく、外敵から国を守るという防衛思想であった。この点は、他の勤王諸藩と根本的に異なるところであった。
「この国は今のままではいけません。開国して西欧の文化を取り入れなければならぬ」
「そうですかねぇ。でも、それはそれで大変なことですよ」
「確かにそうですが、このままでは国が滅びてしまうかもしれませぬ」
「その前に幕府は倒れますね」
「えっ!?何故ですか?」
「だって、公方様は大奥の女どもにいいように操られているではありませんか。あれが幕府の末期症状というものでしょう。いずれ、倒幕の動きが出てきます」
林田藩にはタブーなく、議論する風潮があった。この気風を忠順も好んだ。
「その時は異国の力を借りねばなりませぬ。もし、攘夷などと唱えて、武力による攘夷戦争を仕掛けるようなら、たちまち欧米列強に負けてしまいましょう。そして、植民地となり奴隷のように扱われるのです」
「ふーん。なるほどなあ。だが、どうすればいいのだろう?」
「軍備を整えなくてはいけません。大砲を買い、軍艦を整えます」
「船は良いとして……、どの国の船を買えばよいのか?そもそも、我が藩にそんな金があるかどうか……。それに、船員も必要だし……」
「自国で船を建造し、海外に進出します。海軍力を強化するためにも人材の育成は必要になります」
忠順は単に船を買えばいいという問題でないと認識していた。これは後の横須賀造船所として結実する。
「人材を育てると言っても、どのようにすればよいか分からぬが……」
「そこで、私が提案いたしますのは……」
忠順は林田藩に蒸気船の建造と人材育成を提案した。忠順は悠然とたばこをふかし、たばこ盆をたたきながら、主張したため、周囲は驚いた。林田藩士らは忠順の自信に驚きつつ、将来どのような人物になるかと噂しあった。忠順は嘉永六年(一八五三年)のペリー来航以前より近代化を考えていた。忠順は西洋の知識を吸収しようと躍起になっていた。




