安政の大獄
安政の大獄で梅田雲浜が捕らえられ、江戸に送られた。
「こんな事が許される筈がない!」
又次郎は怒りで手が震えている。
「落ち着け!」
「これが落ち着いていられますか」
兄弟は雲浜を奪還するために江戸に潜伏した。雲浜は激しい拷問を受けたが、黙秘を貫いた。拷問で受けた傷が悪化し、安政六年九月一四日(一八五九年一〇月九日)に獄死した。辞世の句は「君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり」。
「……何ともはや、ひどい話じゃなあ」
二人は憤り、そして悲嘆にくれた。だが、いつまでも悲しみに浸っている暇はない。幕府は雲浜の死をあざ笑うかのように尊王攘夷派への弾圧を強めていった。大高兄弟にも幕府の追捕が迫っていた。二人は浅草寺で坊主に変装した。
金龍山浅草寺は江戸三十三箇所観音霊場の一番、坂東三十三観音の十三番札所である。その歴史は飛鳥時代に遡る。推古天皇時代の六二八年に宮戸川(隅田川下流)で漁をしていた檜前浜成、竹成兄弟が網にかかった観音像を発見した。
これが浅草寺本尊の聖観世音菩薩で、それを安置した場所が駒形堂である。駒形橋の西側にある駒形堂は浅草寺の発祥の地である。元禄年間には観音様がご示現された霊地として、付近では魚類の捕獲・殺生が禁止された。
浅草寺は平将門の乱によって荒廃してしまった。それを平公雅が天慶五年(九四二年)に再建した。平公雅は平良兼の息子で、平将門と度々争った。この時に本堂や五重塔、雷門、宝蔵門は形成された。
本堂は慶安二年(一六四九年)に三代将軍徳川家光が建立した。五重塔は仏舎利を奉安したインドのストゥーパに由来する。雷門の正式名称は風雷神門。雷門に向かって右側に風神の像、左側に雷神の像が建っている。風神と雷神は浅草寺の建物を風水害や火災から守る。
平公雅は駒形堂も建立し、円仁(慈覚大師)作の馬頭観音を祀った。馬は移動手段であり、旅行の安全祈願に御利益のある観音である。駒形堂は「こまんどう」と呼ばれる。駒形の由来には諸説ある。隅田川を舟で通りながら駒形堂を見ると、まるで白駒が馳けている「駒馳け」に見えたという説がある。
江戸時代には駒形堂付近に船着場ができた。船で浅草寺参詣に訪れた人々は、この地に上陸して駒形堂をお参りして、観音堂に向かった。歌川広重の名所江戸百景でも描かれた。吉原の花魁の高尾太夫の句に「君は今駒形あたり時鳥」がある。
芥川龍之介『本所両国』によると、昔は「こまがた」ではなく、「こまかた」と発音していたとする。「駒形こまかたは僕の小学時代には大抵たいてい「コマカタ」と呼んでゐたものである。が、それもとうの昔に「コマガタ」と発音するやうになつてしまつた」
大高兄弟は坊主姿で江戸を脱出して京都に向かった。街道筋の道標に従って右へ曲がると、右手に小さな祠が見えてくる。これが伏見稲荷社の分社であろうか。鳥居もなく、石灯籠もない。お堂の前に賽銭箱が置かれているだけだ。
「ここだ」
大高兄弟が立ちどまったとき、すでに日は暮れ落ちようとしていた。夕闇の中に、朱色の社殿が見える。兄弟は境内に入っていった。参詣客の姿はなく、境内には人影もなかった。
お堂の前を通りぬけて裏手に出ると、そこには大きな池があった。池といっても、水をたたえているわけではない。ただ、木立に囲まれた中に、ぽつねんと沼のようなものがあるだけのものである。




