鳥羽伏見の戦い
慶応四年(一八六八年)一月三日に鳥羽伏見の戦いが勃発する。戊辰戦争の初戦である。兵数は旧幕府軍が優勢であった。
「勝った! 勝ったぞ!」
「やったあ!」
「我らの勝利だ!」
「ばんざあい!」
旧幕府軍の将兵は歓声をあげた。しかし、その喜びは長く続かなかった。
「あれはなんだ?」
誰かが叫んだ。
「ん?」
「あっ……ああ……」
旧幕府軍の将兵の視線の先には、官軍の陣地に翻る錦の御旗があった。
「まさか……」
旧幕府軍は錦の御旗に浮足立って敗走した。薩長方は錦旗という天皇の権威を持ち出した。錦旗を持つ方が正義であるという意識があった。
戊辰戦争は不思議な戦争である。旧幕府軍の敗因は色々と分析できる。指揮命令が統一されておらず、旧式の装備が多かったなどである。とはいえ榎本艦隊や伝習隊、庄内藩のように装備では勝っている面もあった。大きな敗因として旧幕府軍は殺すか殺されるかの戦争をする感覚よりも、朝廷に嘆願するという意識が強かったことがある。
後に五稜郭を占領した榎本武揚でさえ右大臣岩倉具視に宛てて、旧幕臣による蝦夷地開拓を歎願していた。かつて武士は鎌倉時代の承久の乱や南北朝時代の箱根・竹ノ下の戦いで朝廷と真っ向から対決して打ち破った。それと幕末の幕府軍は大きく異なっている。戦う前から負けるとわかっていた戦いだった。
この不思議さは幕府とは逆の立場の西南戦争の西郷軍とも重なる。西郷軍も殺すか殺されるかの戦争ではなく、東京の政府に物を申しに行くという感覚であった。「武器弾薬も、食糧すらろくに用意せず、まるで遊山気分の軍列」であった(池波正太郎「剣客山田又蔵従軍」『卜伝最後の旅』角川文庫、1980年、243頁)。
鳥羽伏見の戦いでは津藩の土壇場の裏切りが悪名高い。津藩の初代藩主の藤堂高虎は何度も主君を変えた人物として知られている。土壇場の裏切りは、さもありなんという印象を与えた。しかし、高虎には先物買いの一途さがあった。土壇場の裏切りは高虎らしくないと言えるだろう。
会津藩の存在が大きいため、藩祖の精神が幕末まで脈々と継承されるものというイメージがある。しかし、会津藩の方が例外的ではないか。幕末の藩の行動が藩祖と体質と異なることは驚くことではない。幕末の徳川幕府の行動も徳川家康の粘りとは懸け離れている。高虎は所属組織への滅私奉公が流行らなくなった二一世紀に評価されて良い人物だろう。
鳥羽伏見の戦いは、徳川幕府にとって最悪の敗戦となった。幕臣達は大坂城に籠城し、徹底抗戦を主張した。
「まだ負けたわけではない」
「いや、もはやこれまで。大坂にいては全滅を免れぬ。江戸へ退くべきじゃ」
議論は紛糾したが、慶喜は逃げるように江戸城に退却した。
「上様は逃げたのか?」
「そうだ」
「逃げよった!」
「臆病者め!」
「恥知らず!」
「卑怯者!」
幕臣達の罵声が飛んだ。幕臣達の怒りは爆発した。
「黙れ!」
一橋派が叫んだ。
「慶喜様はご立派だ」
「ああ、上様はご立派な方だ」
「上様を悪く言う奴は許さん!」
「おお、上様を侮辱する者は斬るぞ!」
慶喜は大坂を捨てた。しかし、慶喜は徳川家の棟梁である。その慶喜が退却したとなれば、他の者も続かないわけにはいかない。
「これはもうどうにもなりませぬ。もはやこれまででございます」
江戸に戻った慶喜は新政府軍に対して恭順の姿勢を示した。旧幕府軍は各地で敗北した。




