二条城放棄
慶喜は京都を離れ、大阪城に入った。「二条城を捨てよ」
その言葉は、あまりにも非情であった。多くの者が衝撃を受けた。
「待ってください! どうか落ち着いて下さい!」
必死になって叫んだ。
「このままでは幕府は崩壊してしまいますよ!」
「ふん……。それでよいではないか」
「よくないですよ! あなたはこの国の最高責任者でしょう? もっとしっかりしてください!」
「うるさい奴め。お前などに何が分かると言うのだ」
「分かりませんよ。でもね、そんなことでは駄目だということくらいは某にも分かっています」
「ならば黙れ!」
「いいですか? 某はこんなところで死ぬつもりはないんですよ。まだまだやりたいことがたくさんあるんですから」
「だったら逃げれば良かろう」
「簡単に言わないで下さい」
「簡単なことだろう?」
「簡単じゃないですよ」
「もう良い。お前と話していても時間の無駄だ。さあ、出て行け!」
「嫌です」
「なんだとぉ!?」
「ここで退いたら某の負けになってしまいますからね」
「何を言っておるか分からん。とにかく出て行くが良い」
「だから嫌だって言っているじゃありませんか」
「貴様ぁ!」
慶喜は刀に手をかけた。
「おい! 止めないか!」
老中は慌てて制止した。
「落ち着けと言っているのに!」
「まったく……これだから武辺者は困りものだ……」
何と言っても京都を戦場にするわけにはいかなかった。
「二条城は捨てる」
「二条城を放棄する」
人々は口々に言い合った。
「幕府はどうなる?」
誰もが不安に駆られた。幕府は幕府であり続けたかった。
新政府は旧幕府が二条城に立てこもり、徹底抗戦すると想定していた。慶喜には大坂を抑えていれば京都の新政府は立ちいかなくなるとの思惑があった。この思惑は正しく、薩摩藩は困った。そこで幕府を挑発する陰謀を計画した。
「これは他言無用だが、お前さんだけに教えておいてもよいかな」
「はい」
「実はな、近ごろ薩摩のお偉方がちょくちょく出入りをしておるようじゃ」
「ほう……」
「いずれそのうち大騒ぎになるかも知れぬ。気をつけるがよいぞ」
「承知つかまつりました」
「うん……それではさらばだ」
老商人の言葉は妙に現実味を帯びていた。それにしても何故、そのようなことを自分に告げる必要があるのか。まさしく忠告というわけか。だとすればありがたいことである。しかし、一体何のためか。それは分からない。ただ漠然と不安だけが募ってくる。もしも本当なら大変なことだ。改めて身震いをした。
薩摩藩は江戸に浪人を放って放火や押し込み、殺人など暴挙の限りを尽くした。
「大変でございやす!」
「どうした?」
「たったいま、江戸から知らせが入りましてございます」
「なんだ?」
「それが……」
「早く申せ!」
「はいっ!」
「江戸にて放火による大火事が発生したとのことにございます!」
「なにぃ!?」
驚愕の声があがった。
「放火による大火災だと?」
その報告に耳を疑った。
「はい。間違いありません」
「馬鹿な! いったいどうしてそんなことになったのだ?」
「さあ……とにかく火の手が上がったとしか聞いておりませんもので」
大阪城では薩摩藩や長州藩と「断固戦うべし」との声が高まった。
「戦うのだ!」
「戦え!」
「勝てるぞ!」
「勝てる!」
「勝つぞ!」
「うおーっ!!」
幕臣達は拳を振り上げた。
「静まれい!」
慶喜の声が響き渡った。
「余も腹に据えかねておる。だがな、今は耐えろ!」
「しかし……」
「今こちらから攻撃すれば、それこそ幕府の破滅に繋がるぞ」
「それはそうですが……」
「それにな、この程度の事で動揺する様では、これから先、到底勤まらぬわ」
しかし、慶喜は幕臣達を制御できなかった。皆一様に殺気立ち、鋭い目つきで慶喜を睨んだ。慶喜は戦うとしても大坂城に籠った籠城戦を主張した。
「大坂城に籠城し、官軍の大軍を迎え撃つのだ」
しかし、この意見は容れられなかった。慶喜は大坂城に残り、他の者は大阪城から出撃した。




