建部政世
十代藩主・建部政世は建部政和の長男として誕生した。祖父の建部政醇の三男とされ、兄・政和(実は父)の養嗣子となった。文久三年(一八六三年)四月一八日に藩主になる。
林田藩では世直し一揆が頻発した。従来の一揆は年貢の増税への反対など既得権擁護型の傾向があった。これに対して世直し一揆は、世直しを志向する点に新しさがある。ここには無宿など異端の人々の活躍があった。勤王の志士の活躍がなくても幕藩体制は行き詰まっていた。むしろ世直しの動きが薩摩藩や長州藩の権力闘争に取って代わられたことが近代日本の不幸だろう。
世直し一揆は「ええじゃないか」に取って代わられてしまった。空から神社の札が降ってきたと大騒ぎになった。札をばら撒いて煽った倒幕勢力がいただろう。神社の札をばらまいたことは神社信仰を強め、幕府が保護していた仏教勢力を殺ぐ目的もあった。廃仏毀釈に通じる動きである。
徳川慶喜は慶応三年(一八六七年)一〇月一四日に大政奉還を奏上した。これは薩摩藩や長州藩の倒幕の動きを止める策であった。慶喜は天皇の下で新しい政府の首班となることで実を取るつもりであった。もともと慶喜の権力の根拠は天皇から命じられた禁裏御守衛総督であった。征夷大将軍の地位への執着は少ない。
「なるほど……世の中が変われば人も変わるものじゃのう」
「どういたしまして」
「いや、感心したぞよ」
「ところで……」
改まった顔つきになった。
「なんでござろう?」
「わしはこのところ江戸へ参っておるゆえ、当分この店には来られぬと思う」
「さようでございまするか」
薩摩藩や長州藩は逆襲の機会を狙っていた。一二月九日に王政復古派公卿が集まり、王政復古の大号令が出される。その日の夜に小御所会議が行われ、徳川慶喜の官位(内大臣)辞退と徳川領の削封(辞官納地)が決定された。王政復古のクーデターである。
林田藩は幕府につくか新政府につくか、去就を迫られることになる。
「林田藩も昔のように徳川ばかりという訳には参りません。殿はいかが思われますか」
家老が尋ねた。
「うむ……」
政世は腕を組んで考え込んだ。
「わしにも分からぬな。ただ、島津家中の結束の強さだけは確かだ。国父の久光公は家中をまとめるために必死になっている。それを支える家臣たちもまた同じであろう」
「さすがですな、殿」
家老は神妙に頭を下げた。
「何のことかな?」
「いえ、島津家についてよくご存知でしたゆえ」
「ああ、そう言えばそうだな。いつの間に知ったのか……自分でもよく覚えていないのだが」
「それはもう、殿は毎日のように島津家の方々とお会いになっていますから」
「そうなのだ」
「何故だか知らぬが、島津家の者と親しくなってしまってなあ。それが不思議というものだ」
「不思議ですか」
「うむ。不思議なことだ」
家老は首を傾げた。
(殿は本当に不思議と思っておられるのだ)
政世は一二月二〇日に上洛し、新政府に恭順した。ここには林田藩の宗家と言うべき備前岡山藩池田氏との連携がある。




