藩札
林田藩は文政二年(一八一九年)一一月に藩札として銀札と銭匁札の発行を始めた。銭匁札の額面は銭十匁、五匁、一匁、五分、三分、二分、五厘であった。兌換紙幣の発行は問題なかったが、不換紙幣の発行は失敗であった。一度発行を許すと、倍にも二倍にも増えていった。信用性が低く、インフレによって紙屑同然になってしまった。藩財政はかえって悪化してしまった。
両替商たちは藩札を受け取っても、すぐに返品した。
「それでは困るではないか?」
「困りますとも……」
「どうしてだ? なぜ困るのだ」
「お返しいたしますのは、その…… この通りでございますから……」
「なに! それはいかん!」
「いえ、いけませんか……」
「いかぬ。そんなことをされては、わしらは商売が出来なくなる」
藩札には交換比率があり、藩内で通用するものであった。しかし、不換紙幣は藩札の価値を保証するものが何もない。大阪や江戸で通用しないとなると、何の意味もない紙屑である。貨幣価値が低下し、物資が不足した。物の値段が毎日のように上がり、店を閉める小商人が続出した。紙幣を刷ってバラまくことは政治による国家破産であり、経済を混乱させ、人々の生活を破壊する。
「これでは藩の財政再建などできない」
藩士達は怒り狂い、不換紙幣発行に反対した。
「不換紙幣を発行して供給量を増やせば、藩内の経済活動が停滞してしまう」
「藩の経済力が弱まり、ひいては藩そのものが弱体化することになる」
「不換紙幣を発行するなんてとんでもないことだ!」
「そんなことになれば、我らの面子が丸潰れになる!」
「不換紙幣発行に反対します!! 絶対に許せません!!!」
「それでもダメなものはダメです! 不換紙幣発行には断固反対します!!」
不換紙幣発行に賛成する者はほとんどおらず、藩内は大混乱に陥った。
武家の生活は苦しくなり、内職が流行した。藩が金を出さないのなら、どうやって生活していけばよいのか。藩が金を出さない以上、何もしないで家計を救うことはできない。行儀作法の教授や代書などは武士の面目と両立しやすい内職である。広い屋敷を拝領していれば、その一部を町方の者に貸すことで賃料を得ていた。または屋敷の一部を畑にして農作物を育てた。売るための花や植木を育て、虫や小鳥を飼うこともあった。
場所を取らない内職には団扇や傘、提灯、竹籠などの日用品の製作がある。この種の内職は、最初は人の目に隠れて行っていたが、次第に作成物を堂々と担いで街中を歩く者も出てきた。中には病気と偽って登城を怠り、家で内職に励む者もいた。やがて藩も武士の生活の安定のために職人を招いて技術を伝授し、内職を奨励することもあった。
権力者は内職を嘆かわしいと禁止したがるが、民間感覚を持つというメリットがある。仙台藩士の内職から生まれた仙台筆や仙台硯は伝統工芸品になっている。養鶏の内職をしていた尾張藩士は名古屋コーチンを生み出した。武士は何ら財を生産しない存在であり、むしろ内職することでバランスがとれる。




