藩校
政賢は藩校の設立を考え始めた。
「殿様のお考えでは、まず藩校で学問を教えることじゃ」
家老の木原十蔵が言った。十蔵は江戸屋敷から戻ってきていた。
「藩校?」
「そうですぞ。武士の子に読み書き算盤を教えておる。それが評判になってなあ。諸大名からも教えてほしいという声が多く寄せられておりますそうな」
「ふむ……」
「さらに武芸も奨励しておられる。剣術や槍術などだ。これもまた評判がよいらしい」
「ほう……それで、どうするのだ?」
「殿様はこのたび、御家門の方々をお招きになった」
「それは知っておるが……」
「その中に、藩校の教師として招く方がいらっしゃるとか」
「何人くらいかな?」
「さようですのう。五人ほどになるのではないかと存ずる」
「ふうん……」
寛政六年(一七九四年)に藩校の敬業館を創建した。「敬業」は『礼記』の「敬業楽群」に由来する。講堂、聖廟、練武場、文庫などがあった。講堂の正面に掲げられた「敬業館」の扁額は松平定信の書である。敬業館の瓦には林田藩建部家の家紋である「三ツ蝶」が施された。士族の子弟は八歳になると入学し、一六歳で卒業した。庶民でも志願者は入学を許され、授業は身分の区別なく行われていた。「士庶共学」は敬業館の特徴であった。
十蔵の理念には「天下万民平等」があった。身分制度を否定しようとした。旧態依然とした封建体制の中で生きてきた人々にとって、これはあまりに急激な理念でありすぎた。そのため、彼らの頭の中では、現実を直視しようとする努力よりも、自分達の古い常識を守ろうとする意識の方が勝った。彼らは古い価値観に固執した。
敬業館の成果は、幕府の記録に残っている。そこでは「林田藩においては、領民の生活状態がよくなったようである」と称賛している。一方で「これらの功績のあった人物について記録がないのは不自然である」とも書いている。敬業館は文久三年(一八六三年)に火災に遭ったが、一年足らずで再建された。それほどまでに林田藩は藩校を重視していた。
敬業館の授業は漢学中心であったが、幕末には蘭学者を登用し、洋学にも取り組んだ。洋学の取り組みは幕府の禁令に触れず、実用主義の点から人が生きる上で重要な医学から始まった。その後は列強艦隊来航による海防の緊迫化から西洋砲術の研究が重視された。ここから天文学や地理学、工学、化学などに取り組むようになった。
敬業館の講堂は一八七一年(明治四年)に敬業小学校となる。一九〇二年(明治三五年)に敬業尋常小学校が林田尋常小学校に改称される。この年が林田小学校の創立年となる。一九四一年(昭和一六年)に国民学校令施行により、林田村立林田国民学校と改称された。一九四七年(昭和二二年)に学校教育法施行により、林田村立林田小学校と改称された。




