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林田藩  作者: 林田力
林田藩
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寛政の改革

天明の打ちこわしで江戸幕府老中の田沼意次は失脚した。田沼政治の不満は強かった。近時は資本主義的な視点から、寛政の改革を反動的、田沼の重商主義的政策を進歩的と田沼政治を再評価する見解がある。しかし、公務員の恣意を排した市場主義的な視点で田沼政治を評価することは無理がある。米だけではなく商業にも注目したと言っても、公務員主導経済に過ぎない。逆に米だけに注目した立場の方が商業への恣意的な規制をしない分、市場経済は発達した。

「世の中は左様でござる御尤も何と御座るかしかと存ぜぬ」

これは田沼政治を批判した狂歌である。忖度だらけの公務員政治と変わらない。


田沼政治は耕作に適しない蝦夷地に新田開発するなど、開発ありきの非現実的なものであった。昭和の土建国家のようなものである。過剰な新田開発による洪水や土砂崩れを頻発させ、農業生産性を落としたことが天明の大飢饉の被害を拡大させた。この意味で天明の打ち壊しで意次が失脚したことは正しい。


意次の失脚後に八代将軍徳川吉宗の孫の白河藩主・松平定信が徳川御三家の推挙を受け、老中首座に就任し、寛政の改革が始まる。讃岐国出身の儒学者の柴野栗山しばのりつざんが定信のブレーンになった。寛政の改革への期待は高かった。

「田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水」

白河藩主の定信が汚れた田沼政治を改めることを期待した狂歌である。

「どこまでも かゆきところに 手の届く 徳有る君の 孫の手なれば」

定信が有徳院殿(徳川吉宗)の孫であることと孫の手をかけた狂歌である。ところが、寛政の改革は現実離れした政策が多く、混乱を招いたものも多かった。期待は失望に変わり、狂歌で皮肉られた。

「白河の清きに魚もすみかねて もとのにごりの田沼恋しき」

「孫の手のかゆき所へとどきすぎ足の裏まで掻きさがすなり」

「諸共に あはれとおもへ 諸役人 定の外に とるものはなし」


とりわけ混乱を招いた政策は、寛政元年(一七八九年)の棄捐令であった。棄捐令は旗本御家人の借金を棒引きにしたものである。蔵米取の旗本らが札差から借りていた債務を一七八四年(天明四)以前は元金・利子とも破棄し、八五年以後を年利六分に下げ年賦償還とした。借金に苦しむ旗本御家人の救済策として出されたが、経済恐慌を招いた。


札差は旗本御家人の禄米の売却代理人である。旗本御家人の生活が苦しくなると、札差は将来の禄米を担保に金を貸し出した。

「あの、すみません」

「はい、何でしょうか?」

「実は、ちょっとお尋ねしたいことがあるのですが……」

「どのようなご用件でしょう?」

「じゃあさ、お金貸してくれないか?」

「金貸しなら間に合ってるよ!!」

「違うよ。そういう意味じゃないんだ」

「じゃあどういう意味なんで?」

「それは言えない。でも、どうしても必要なんだよ。お願いだから少しだけ貸して欲しいな」

「ううむ……」

「うちも生活が立ち行かなくなってきたので、どこかの誰かから金を借りないとやっていけない状態だからな。駄目かなぁ……」

「なるほど。事情はよく理解できました。それで、いくら必要なのですかねぇ?」

「五両」

「分かりました!ただし、利子はいただきますぜ!!」

「もちろんだよ!!」

「では、これで!!」

「まいど!!」

「ありがとうございます!! 助かります!!」

「いえいえ、どうってことはありません」


旗本御家人は借金漬けになり、禄米は借金の返済で消える状況になった。棄捐令は借金漬けの旗本御家人の救済を意図した。しかし、これは目の前の借金問題を何とかしようということしか考えない近視眼的な政策である。以後の札差は貸し渋りをすることで、逆に旗本御家人は資金繰りに困ることになった。


「倹約を指図すれば、武家も町人もひれ伏して従うと思い込んでいる」(山本一力『おたふく』、文春文庫、二〇一三年、一五八頁)。この前近代的な感覚は二一世紀の日本政府も変わっていない。西村康稔経済再生担当相は二〇二一年七月八日、酒類提供の停止に応じない飲食店に対し、融資を行う金融機関から働きかけを求める方針を表明した。


札差は棄捐令によって莫大な債権を失った。資産がなくなったので、もはや旗本御家人がどれほど金に困っていても貸し出しを求めても応じられない。これは痛快である。日本では大変な目に遭った人がそれでも頑張ることを美徳とするような風潮がある。しかし、マイナスなことがあれば、それを反映することが当然である。頑張ることの強要は悪徳である。


棄捐令後の札差の貸し渋りに対しては、幕府が札差の業界団体である会所に資金を融通することで対策した。これは札差を公務員主導経済に組み込むことになる。個々の札差ではなく、業界団体の会所に資金を融通することで業界団体の統制を強めた。


一方で棄捐令の中には、まともな政策もあることはあった。旗本御家人の知行高に比べて不相応な高額借金の申出を拒絶すべきとした。また、蔵米支給で酒食の饗応を禁止した。


棄捐令に対して富の再分配による格差解消という積極的意義があるとする見解がある。民間が積み上げた財産を恣意的に帳消しにすることを良いことという発想に気持ち悪さがある。同じ頃にフランスでフランス革命が起き、財産権の不可侵が掲げられた。日本では革命は起きなかった。逆に民衆の側でも富の再分配を歓迎する発想があることが、二十一世紀になっても人権感覚が後進的な所以だろう。


寛政四年(一七九二年)六月に水飢饉が襲う。焼けつくような日照りが続き、稲は変色して枯死寸前の状態になった。

「年貢さえ納めればそれで良し。他は知らん顔だ」

「お役人はお上の犬でございやすからねぇ」

林田藩の南の村では西池の水を流すように藩に願い出た。西池の水は中構・上構・久保・下構の四つの村のものであったが、非常事態ということで許可された。


これに対して四つの村の農民達が阻止した。西池の水が南に流されたら、自分達が干上がってしまうと考えたためである。

「何と仰せられても、流せませぬ」

「お慈悲はないでござるか?」

「俺達は貧乏人ですが 意地はあるんでさぁ」

首謀者として藤井市右衛門が寛政五年(一七九三年)二月に死刑になった。四つの村では市右衛門は藩命に背いて田の水を確保した義民とされた。「田を救いし、恩徳は忘れじ」と称された。


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― 新着の感想 ―
[一言] 現実離れした政策を多くやったのは定信ではなく田沼の方なんだがな。山師とも言われる田沼の政策は手賀沼の干拓事や樺太択捉島まで米栽培適地だと勘違いした蝦夷での米生産事業など場当たり的な計画で失敗…
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