天明の大飢饉
七代藩主・建部政賢は建部政民の四男。天明の大飢饉に見舞われる。天明二年(一七八二年)から三年(一七八三年)にまたがる冬は冬とは思えない暖かい日が続いた。暖かかったり、寒かったりと寒暖の差が激しい。寒いと思っていても意外と暖かい日になったりして気を抜けない。この冬は雪が積もらなかった。例年は根雪になり、春先まで消えずに地面を覆っていた。
このような年の夏は逆に寒くなり、冬が早く来る。四月下旬から八月まで長雨が止まなかった。分厚い雲が覆い、快晴の日は僅かであった。ある晩には風と雷を伴った雨となった。
「なんだ!?この雨は!?」
突然の大雨で視界が悪くなった。しかも、雷まで鳴り始めた。次の日になっても天候の回復は見られなかった。林田川が雨で溢れた。田畑や人家が流された。六月中旬に冬を思わせる風が吹いた。秋には稲の上に雪が降り積もった。
「これでは米の収穫が減る」
「このままでは藩財政が立ち行かなくなるぞ」
しかも浅間山が天明三年(一七八三年)七月六日に噴火した。浅間山は天空に向かって火炎や噴煙をぐんぐん吐き出し、各地に火山灰を降らせた。大気中に噴き上げられた大量の微粒子は冷害の原因の一つとなった。この影響は日本だけでなく、北半球に広がり、一七八九年のフランス革命にも影響を及ぼした。
天明の大飢饉は異常気象による米の不作が原因である。そこに人災が重なった。幕府や各藩による過剰な新田開発は洪水や土砂崩れを頻発させ、農業生産性を逆に落とした。
より目に見える問題は大商人の買い占めや売り惜しみである。米価が異常に高騰し、続いて味噌や乾物も争って買い占められた。庶民の生活は苦しくなり、満足に食事をすることもできなくなった。
「米の値段が途方もなく上がって、おいら達は満足におまんまも食えない」
「仕入れ値が高いから仕方ないのです。お気に召さなければどうぞ他所でお買い求めください」
大商人の手代は威張って説明する。他所と言われても、消費者には選択肢がない。営業の自由がない社会であり、新規参入業者が登場する訳ではない。不快感が波のように寄せては返した。大商人への怒りが打ちこわしに発展する。
天明七年(一七八七年)五月に大坂と江戸で打ちこわしが発生した。それが枯野を焼く炎のように全国に波及した。林田藩でも大規模な打ちこわしが起きた。髪結や左官、棒手振など店借の下層民が主体になった。
最初は米屋が襲われ、酒屋や質屋などにも広がった。店舗を破壊し商売道具を壊し、金銭や商品、帳面などを川に投棄した。悪徳商人の屋敷には糞尿を汲みだし、撒き散らした。取り残される不安や動きに遅れまいとする焦りを吞み込み、途方もない暴動になった。




