19
交信器の向こうからは延々と歓声が届き続ける。シャイロックは静かにそれを撫でていた。思うところはたくさんあるのだろう。
シャイロックは主様と話さなければならない。フランフィールは思い至る。もともとは彼の契約で、彼が主様のさみしくならない道を開いてきたのだから。
「主様。シャイロックは契約を果たしました」
「フランフィール?」
「今度はあなたが主様と話す番」
まっすぐに見つめれば、覚悟は決めてきたのだろう。シャイロックが頷く。そうして交信器から離れると泳いで主様の目のそばへと向かう。なぜだかフランフィールも連れて。
「頼むフランフィール。一緒に聞いて」
懇願されてしまえばいやとは言えない。交信器を抱えたまま主様の目のそばへと運ばれていった。光を宿した黒い瞳は相変わらず優しく理性的で、以前に見たときよりも嬉しそうだった。
「主様。シャイロックめは主様との契約を引き延ばしのらりくらりと過ごしておりました。俺はここに来るのが恐ろしかったのです」
主様はシャイロックの懺悔をじっと聞き入っていた。目に責める色はない。さみしさも、もうない。
「水底の民にここへ行くように言われ続けて、水面の国へと逃げました。水面の国の民は優しく、素性の分からない俺を湖からの客と呼び仲間に入れてくれました。そこにならずっといたいと思えるほどです」
主様が軽く笑う。フランフィールの秘密の話を思い出したのだろう。ほほが赤くなっていないか確かめるすべがないのが辛いところだ。
主様も秘密の話は秘密にとどめていてくれるようだ。シャイロックがどうかしたのか尋ねた際に、なんでもないと誤魔化してくれた。
「水面の民は主様の姿もほとんど見られず声も聞こえないのに、主様をとても大事にしておりました。だから、俺は、主様がさみしいことをすっかり忘れたふりをしていたのです」
自分を騙して、こんな人たちがいるのだから主様だってさみしくないと言い聞かせながら過ごしていたらしい。フランフィールの話も少し出てきた。誰よりも熱心に祈りをささげる乙女。町で有名な話だったそうだ。
「主様が跳躍された姿を見て、思い出したのです。俺は役目から逃げているだけの臆病者だと。水面の民がどれだけ祈っても主様には少しも届いていないのだと」
シャイロックの懺悔は続く。フランフィールが自ら沈むと決めたとき、心のどこかで助かったと思ってしまったこと。それを深く恥じて水底で説明したこと。これはフランフィールには初耳だったけれども、同時に深く納得もした。
それから、交信器の存在を知ったこと。
「主様に、水面の民の祈りが届けばいいと思いました。彼らは本当に熱心に、俺が、水底で育って主様の存在を間近に感じていた俺が不思議に思うくらい主様を大事にしています。この声が届けば、主様のさみしさも和らぐのではないかと」
体感で、長い長い沈黙が場を支配した。シャイロックはもう俯いていない。主様の目をまっすぐに見つめ、主様がどう考えているのかくみ取ろうと必死になっている。
「シャイロック。契約は正しく果たされた。水面の子らの声は我にとって喜びでもある」
「では」
「これからはさみしくならないようになるだろう。時折さみしさが帰ってきたらフランフィールがいつでも来ると約束を交わしてくれた」
「はい、その通りです」
ぱちりとフランフィールの左手が輝く。シャイロックの手に見たピンク色の睡蓮の文様。
これは、主様との契約の証。
これは、主様に求められた証。
シャイロックが焦るものの、フランフィールは嬉しくなる。主様直々に指名を頂いたことが大半を占めていたが、シャイロックとおそろいだなんてそんなことでも浮かれているのは内緒だ。
「フランフィール、シャイロック。幸せになれ、湖の子ら」
それが別れの言葉だった。主様は住処を離れ食事に向かってしまった。後に残されたのは二人きり。シャイロックは呆然と主様を見送っている。フランフィールも、おそらくこれが最後だろうと主様の姿を目に焼き付ける。
美しく偉大で聡明な方だった。
湖岸でも話せたらいい。
「シャイロック。水面に上がりたい」
「あ、ああ」
連れていかれる間、会話はなかった。シャイロックもいろいろあって混乱しているだろうし、フランフィールはこの光景を忘れまいと一所懸命に目を凝らしていた。長い時間をかけて浮上する。
待っていたのはレーデシェスカ。明るさに目が慣れると彼女の笑顔が飛び込んできた。交信器を渡して、シャイロックとレーデシェスカに舟まで押し上げてもらう。
「会いたかった。レーデシェスカ」
「私もよ。主様のお言葉を拝聴したかったけど、それ以上にフランフィールに帰ってきてほしかった」
「それでここに?」
「ええ。舟の苦手なシャイロックの代わりに櫂を漕いできたの」
簡単な挨拶を済ますと、だんだん瞼が重くなってくる。レーデシェスカにひと声かけて、舟に横になった。シャイロックが舟に乗り込んだところまでは起きていたものの、後は眠りに落ちてゆく。夢は見なかった。
「フランフィール、起きて。岸についたわ」
優しい声が体を揺らす。岸、とはどこの岸だろう。まわらない頭で考えて瞼をゆっくりと押し上げる。騒ぎ声が響いている。今日はお祭りの日だったろうか。
そう、お祭りみたいな日だった。
レーデシェスカがもう用の済んだ交信器をもって舟を降りる。シャイロックが手を差し伸べて、岸へといざなう。
自然と手をとり後について王城へと足を向ければ、迎えたのは大歓声。
乙女たちがずらりと並ぶ。奥には町の人々が酒を飲んで食事を楽しみ、主様がいかに素晴らしいか語り合っている。中には見たことのない顔もたくさんいて、おそらく水底の民なのだろう。町の人と張り合ったり仲良くおしゃべりしている。
乙女たちはフランフィールを見ると、一定の距離を置いたままひとりずつ声をかけてくる。珍しくヴェールを上げて、顔を真っ赤にしていた。
「おかえりなさい」
「お勤め、すごかったです」
「あなたは湖岸の国の誇りです」
「帰ってきてくださってありがとうございます」
降り積もる言葉はどれもフランフィールを称えたり帰ってきたことに対する喜びを示していた。
フランフィールは戸惑う。なにせ主様のもとへ赴いたのは彼女が勝手にやったことなのだから。主様のところで滞在したことだって、抜け駆けしたって言われても仕方のないことだと思っていた。
それがこんなふうに歓迎されている。
「みんなフランフィールの帰りを待ってたんだ」
「なぜ」
「人柱に立候補して、事態を解決して、主様のさみしさを癒した。充分だろ」
「最後のはシャイロックのしたこと」
「あんたが成したことだし、あんたがいなきゃ逃げ続けてた」
「あのね、自分のことは一番最後の乙女フランフィール。言ったでしょう。みんなあなたに憧れていると」
フランフィールの両目からとうとう涙がこぼれた。
彼女自身がずっとある種のさみしさに慣れきっていたのだと思い知る。帰りを喜ぶ言葉なんて、儀式みたいなものだった。こんなに温かいなんて知らない。
誰かに思われることがこんなに幸福だなんて理解していなかった。
乙女が椅子をすすめてくれる。シャイロックやレーデシェスカ、乙女たちが動き回る中、落ち着くまでじっと座っていた。




