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切羽詰まった声に思わず笑いだす。湖の精霊は丁寧にそれを伝えてくれたらしい。むこうから混乱の声が上がっている。
「シャイロック。主様の御前。先に挨拶」
「あ、ああ。主様、俺、約束を先延ばしにしてばかりで申し訳ありませんでした」
「よい、話はフランフィールから聞いた」
「明日、そちらに向かいます。もしも話をしてくださるのなら、その時にまた」
かちこちに固まった言葉はシャイロックにはさっぱり似合わなかった。主様が笑う。フランフィールも笑う。なぜ笑われているのか分からないシャイロックはひたすらおろおろとしている。
「今日の話はもう済ませた。フランフィール、存分に語るがよい」
「ありがとうございます、主様。シャイロック、なに」
「なに、じゃなくて。交信器。改造できたから明日持ってく」
「水にぬれても大丈夫? 砂も?」
もちろん、とシャイロックは自信たっぷりに答えた。もう試験は終わったからあとは運んで沈めるだけだと。フランフィールを迎えに行くだけだと。
「男子禁制の睡蓮宮でなにしているの?」
「フランフィールに真っ先に伝えたくて、無理を通した」
「それは一大事。よろしくない」
「こんなときでも睡蓮の乙女なんだな」
「当たり前。わたしの憧れで誇り」
フランフィールの懐かしさはあっという間にどこかに行ってしまった。まるで昨日も会話したみたいな気安さ。それから、主様に語って自覚した胸を焦がす衝動。
いま求婚されたらなびきそうで怖いな、フランフィールはありえないことを思う。
「そういう理性的なとこも魅力的」
「どうも」
「いつ持っていけばいい?」
「日中は主様がいらっしゃらない。早朝か晩に」
「それじゃあ早朝だ。早く会いたい」
まっすぐな言葉に胸を打たれる。わたしも会いたい、とはまだ言えない。
主様にお伺いを立てる。
「主様、シャイロックが交信器を、わたしの抱えたこれを持ってきます。わたしがいなくてもいつでも水面の民とつながります。この場に置くことを許してくださいますか?」
「それは本当か」
「いつか言った通り、さみしくない道をシャイロックが用意いたしました」
「許す」
会話は睡蓮宮にもちゃんと届いたようだった。シャイロックが喜ぶ声が聞こえる。無理言って入っただけだから早朝に備えて帰る、と言葉を残して交信器は黙ってしまった。
「フランフィール。汝は水面へと帰るのだな」
「主様が望めば留まりましょう」
「いや、シャイロックと共に帰るがよい。ここは子らには厳しい場所だ」
精霊になるには、精霊の器になるには大量の力が渦巻く場所に留まることが条件のひとつにある。主様の住処は湖の力が強いのだろう。
主様はフランフィールの身を案じてくれている。フランフィールが人の理から離れてしまうことを危惧している。シャイロックとの関係を知って、フランフィールが幸せになれる道を示してくれている。
つい、泣き出してしまった。
「フランフィール、何故なく」
「主様のお優しさに触れたために」
「悲しいのか」
「いいえ、嬉しいのです」
主様は困惑されたのだろう。ヒレが動いたらしく、水が流れを作る。申し訳ないと思いながらも涙は止まらない。
この方は水底でずっとさみしい思いをしていた。
それなのに、なにも知らずに湖岸で過ごす民を水面の子と呼び、知りながらもなにもできない湖の底の住民を水底の子と呼び、みなまとめて湖の子と呼ぶ。湖の子らが幸せになれる道を、と望まれる。
さみしさを押し殺して子を優先させる姿のなんと凛々しきことか。
「フランフィール。優しい子。水面に戻ってから、時折でよい。話をしてくれるか。我を忘れずにいてくれるか」
「主様。わたしたち水面の民の心はいつも主様を向いております。水底の民も同様でしょう。主様が呼ばれるのでしたら、フランフィールはいつでも参ります」
「ああ、可愛い子。その言葉だけで充分だ」
最後の夜はとつとつと湖岸の国の民の話をした。どれだけ主様を敬愛しているのか。出会った時の挨拶にはいつも主様の話題が入る。天気の話だって、季節の話だって、自分の近況にだって。どんな話にも主様は中心にいる。
主様はそれに聞き入っていた。伝わればいい。この偉大で素晴らしいお方に、さみしがることはないのだと。皆あなたを愛しているのだと。
眠りにつくと久々に夢を見た。睡蓮の乙女として睡蓮宮でお勤めをする夢だ。レーデシェスカがそこにいる。導師をはじめとした乙女たちもいる。そうして笑い声に満ちた睡蓮宮の真ん中で、主様から声が届く。返事をする。岸辺ではシャイロックが手を振っている。
幸せな夢だった。
早朝に目を覚ます。夢の内容はさっぱり忘れていたけれど、なんだかすっきりした。交信器を抱えてじっと待つ。
主様の、美しい鱗を間近で見られるのは今日が最後だろう。湖に沈んでからどれだけたったか分からない。けれど、こんな経験この先一生ないだろう。じっと目に焼き付ける。そうして思い出す。真っ黒で優しい主様の瞳を。
「フランフィール!」
フランフィールが主様を思う時間を邪魔できるのなんてたった一人だ。顔を上げる。奥歯を噛みしめて、泣き出さないように踏みとどまる。
シャイロックが下りてくる。フランフィールの抱えた交信器よりも一回り大きなそれを抱えて、足にはヒレを付けて、まっすぐにフランフィールに向かってくる。主様の輝く鱗に照らされた銀の髪がとても懐かしく、綺麗に見えた。
交信器から手を放しそうになる。両手を広げて歓迎したかった。一瞬で正気に戻り、慌てて交信器を抱えなおす。
水底につくとシャイロックはフランフィールのすぐ横に交信器を設置した。おもりのついた交信器は、手を放すと少し浮かび上がる。これなら砂に埋もれることもないだろう。
シャイロックが左手の甲をみせる。ピンク色の睡蓮の文様は変化していた。幾何学模様はそのままに、睡蓮の部分は白い鱗のようになっている。契約を履行した証だと告げられた。
「ずっと会いたかった。謝りたかった。遅くなってごめん。それから、待っててくれてありがとう」
それだけ言ってシャイロックは言葉に詰まる。顔をしかめて、自分の腕をつかんで泣いてしまわないようにと我慢しているように見えた。
顔をそらしてしまったシャイロックになにを伝えようか悩む。会いたかった。謝る必要なんてない。あなたが約束を守るとは思っていなかった。国宝に匹敵すると言われる交信器を改造できるなんて無理だろうと諦めていた。
でもそんなものは、あとでゆっくり話せばいい。今一番伝えたいことを口に乗せる。
「シャイロック。わがままを聞いてくれてありがとう」
ぱっ、とシャイロックが振り向く。なにか言いたいのだろう、口を半開きにしたまま時間は過ぎる。
そろそろ主様が起きる。フランフィールの勘がそう告げている。
「フランフィール。シャイロック」
「おはようございます、主様」
「お、おはようございます主様」
「交信器の設置が終わりました。これで主様はいつでも水面の民と話ができます」
「水底の民も駆けつけております。どうか、一言お言葉を」
これには初耳だったのでシャイロックを見つめる。シャイロックは主様を見つめたまま続けた。みな主様のお声が聴きたくて岸辺に集っていること。水面はお祭りのような騒ぎのこと。それから、昨晩からずっと寝ずに待っているものもいること。
おどけて話すシャイロックは話が上手だった。さて、これ以上待たせると暴動が起きかねませんと前置きをして交信器へと向き合う。
「交信器のテスト。こちら水底のシャイロック」
聞こえた、本当に伝わるとざわざわした声がいくつもいくつも伝わってくる。騒ぎは収まらず、聞き覚えのある声から全く聴いたことのない声までたくさんの声が伝わる。
「主様、お言葉を」
少しの間を置いて交信器の向こうが黙る。主様は厳かに声を発した。男性とも女性ともとれる幾重にも重なった不思議な声がこだまする。
「湖の子ら。汝らに祝福の多きことを」
歓声がはじけた。単純に喜ぶ声、自分の耳を疑っているもの、涙交じりに感謝をささげるもの、祈る声。
なるほどこれはお祭りだ。主様への感謝のお祭り。フランフィールは嬉しくなる。やはり湖岸の国の民にとって主様は誇りそのものなのだ。




