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主様と乙女たちの会話は決まって晩に行われる。家族の様子を話すもの。大通りにあるお気に入りの店について話すもの。子供のころの淡い恋心を話すもの。乙女たちの話題は尽きない。主様はどんな話にもじっと耳を傾けていた。
朝起きて、主様がまだいる日々は続いた。食事をとってすぐはぐっすり眠れたものの、やはり一度きりではもとに戻るらしい。これはきちんと睡蓮宮に連絡を取った。近々遣いをやります、と導師が答えてくれる。
ある朝のことだった。主様はまだ眠ってらっしゃるのだろうと思いつつ、どうしても気になったのでそっと主様の鱗に触れた。固くて冷たいそれは睡蓮宮の花びらを思い起こさせる。違うのは主様の鱗の方がざらりとしていることだ。
「フランフィール。ここでの暮らしは辛いだろう」
突然主様に話しかけられて、足がすくむ。
「そんなことはありません、主様がいます」
花冠も花束もダメになってしまったけれど、これは本心だった。フランフィールの信仰の対象で、子供のころからの憧れ。疑われたことにどきりとする。自分はなにか失敗しただろうかと不安が増してくる。
「ずっと考えていた。どうしてシャイロックは来ないのだろうと。ここは、我以外にとってもさみしい場所なのだな」
「それは」
「遠慮はいらない。素直に申してみよ」
「さみしい、です。ですが辛くはありません」
きっ、と顔を上げる。主様は悲しんでいる。それが痛いほどに伝わってきた。
もしも交信器がなかったら。もしもレーデシェスカが約束をくれなかったら。もしもシャイロックが諦めてしまっていたら。そうしたら、ここはフランフィールにとっても辛い場所になっていたかもしれない。でも、いま辛くなんてない。
「シャイロックは主様がさみしくならない道を切り開いているところです」
「娘。フランフィール。何をもって信じろと」
「ここにはわたしの心ひとつしかありません」
主様が落胆するのを感じる。きっと主様もシャイロックのあの明るさが好きだったのだろう。稀にしかしないという契約を結んでしまうくらい。銀色の髪を思い出す。よく感情を表す紫色の瞳を思い出す。フランフィールはまだ彼を覚えている。
「主様。今日はシャイロックの話をしましょう。優しくて、臆病で、さみしがりで、あきらめの悪い青年の話です」
大事な話だ。ひっくり返すのが恥ずかしくて、いつかの約束がなかったことにされるんじゃないかと怯えていて、話せなかった話。主様は少しの沈黙の後、頼むと言った。こうして珍しい朝の話が始まる。
「水面の民と水底の民は長い間交流がありませんでした。そんな中、彼は睡蓮宮に流れ着いたのです。初対面でなんと言ったと思いますか?」
「なんだろうな、我には分かりかねる」
「結婚してくれ、と言われました」
主様が笑う。水中が揺れて砂が巻き上がり、耳が痛い。でもそれ以上にフランフィールは嬉しい。シャイロックの話をするときいつも主様は痛ましいといった感情を示していたから。
「フランフィールはどうした?」
「もちろん、お断りしました。わたしは睡蓮の乙女なので」
それから彼が湖からの客として扱われることになったこと、風邪を引いたことを続けて話す。
「熱にうなされてずっと謝っているものですから、思わず罪を許す、と言ってしまいました」
そこからのシャイロックの求婚譚を延々話す。思い返せば恥ずかしいことばかり言われていた。ところどころ詰まりながらも、正直に話す。いつの間にか町に馴染んでいた。子供と真剣に喧嘩したらしい。働き口だって見つけていた。
そうしていつも、湖岸にフランフィールを迎えに来てくれた。
主様を見かけて呆然としていたことも告げた。
それから、睡蓮宮が閉じて水底に連れてきてくれたこと。交信器を持たせてくれたこと。心配して食事を運んでくれたこと。
主様の雰囲気はやわらかい。ずっとシャイロックを心配していたのだろう。
「娘。フランフィール。汝はシャイロックを好いているのだな」
「主様。睡蓮の乙女としてはふさわしくないことに、まったくその通りなのです。一介の乙女の大きな秘密でございます」
もう顔は真っ赤だった。恥ずかしくて仕方がない。それでも精一杯まじめな顔をして頷く。
主様はまた豪快に笑う。降りてきたばかりの砂がまた舞い上がる。
「汝にとって勤めと恋とどちらが大事だ?」
「主様です」
「悲しいことを言うな、フランフィール」
「いいえ、これは本心です。わたしは孤児です。恐れ多くも、ずっと主様を親のように思っておりました」
いままで誰にも内緒だったこと。湖岸で主様を見かけたときからずっとフランフィールの心の支えだった。主様の話を聞くたびに、親というものがもしいたのならこのように尊敬できる方がいいと思い続けてきたのだ。
「フランフィール。湖の娘。水面の民も水底の民も等しく我が息子、我が娘である。よい、我を親と思え」
主様が優しく告げる。許されたことに、力が抜ける。交信器にもたれかかった。
「ありがとうございます、光栄です」
「そして我が子の幸せを祈らぬ親はおらぬ。どうか心寄り添える相手と幸せをつかめ」
「幸せ、を、つかむ」
少しばかり考える。これでは主様からお話し相手としてのお勤めを解放されるようではないか、と。慌ててフランフィールはつづける。
「親の幸せを祈らぬ子もおりませぬ。わたしはシャイロックが主様のさみしさを和らげるすべを連れてくるまで帰りません」
「フランフィール。強情な子だ」
「よく言われます」
そのまま主様は泳ぎだしてしまった。朝の話は終わり。今日晩には乙女がなにか話すだろう。じっとその場に座って、主様との会話を何度も思い返す。
なんだかとても恥ずかしい話をしていた気がする。まだほほが熱い。
それに、主様の言葉。親と思え。舞い上がる砂と一緒に心が踊りだす。交信器さえなければくるくると回りだしたいくらいだった。
晩には主様が帰ってくる。いつ帰るか分からない中、フランフィールは自然と歌を歌っていた。いつかレーデシェスカに褒められた歌。主様を称える歌、主様に捧げる歌。すっかり身に沁みついた歌は途切れることなく続いていく。
「フランフィール。それは美しいな」
「歌ですか、これは主様のためのものです。乙女たちはみな歌えます」
「初めて聞いた。心地よい。続けよ」
「はい」
交信器がしゃべりだすまでと思い歌を歌う。独唱曲はそんなにたくさん種類がない。もっともっとたくさんの曲があることを、主様に伝えたかった。
歌の切れ間には主様に睡蓮宮で学ぶ様々なことを伝えた。
歌だけじゃない、踊りも美しいのだと。今は交信器を抱えているから踊れないけれど、レーデシェスカの踊りは本当にきれいなのだと熱心に語る。
フランフィールは随分と口が回るようになった。
そうしてまた歌を歌う。主様が喜びに巨体を左右に揺らす。砂が舞い上がりのどに入ってむせる、それもまた楽しかった。
歌の途中で交信器が光る。ガラス玉が深い藍色に染まるところは見慣れてしまった。さて、今日は誰の何の話なのだろう。じっと言葉を待つ。
「フランフィール!」
男子禁制の睡蓮宮にあるはずの交信器から、懐かしい、待ち望んだ声が聞こえた。
シャイロックの声だ。




