13
神域にたどり着けばシャイロックは渋い顔をして舟をトントンと指でたたく。フランフィールが主様のもとへ赴くことにまだ反対しているらしい。いまさらだ。
「シャイロック。わたしはあなたを信用した。今度はあなたがわたしを信用する番」
「俺の改造は当てにならない?」
「当てにしているよりも、睡蓮宮を開くほうが先。優先順位は譲れない」
「どこまでいっても睡蓮の乙女なんだな」
「そう。それにずっと憧れて、それがずっと誇りなんだ」
交信器を抱えてすっと背を伸ばす。
主様のもとへ赴くことは怖くなかった。最初から怖くなかったものの、今は先に小さな明かりがある。シャイロックがそれを持っている。だったらどうして恐れる必要がある。
「わたしは睡蓮宮が開いたところが見たい。頼りにしている」
「おう。……これで最後、結婚して?」
「こんなところで最後にする人とは一緒にはなれない」
「それって」
「それじゃ」
どうか迎えに来てほしい。かすかな祈りを込めて簡単な挨拶をする。それじゃ、と言えばまた朝か夕かには会えたのだ。そうやってずっと顔を合わせていたのかと気付く。乙女たちが羨ましがるわけだ。
帽子を投げ捨てて、ぴょんと跳ねてとぷんと湖に入った。後は主様のもとまで沈んでいくだけだ。体を丸めて交信器に沿う。主様の住処は深い深い湖の底にあると聞いた。どれだけかかるだろう。
花冠を手向けて貰えばよかった。少し後悔する。
ゆっくりとフランフィールは思い出す。湖岸の国で育ったころの記憶を、睡蓮の乙女に選ばれてお勤めに励んできた記憶を、それからシャイロックが来て賑やかになった記憶を。大丈夫、話すことは苦手だけど話したいことはたくさんある。
主様のさみしさが減りますように。祈りながら沈んでゆく。
光の差さなくなった湖の中で、フランフィールは時間の感覚を失ってゆく。上か下かも分からない。
そんな中、一方から淡い光が届いた。真っ白い光はだんだんとまばゆくなっていく。主様だ。フランフィールの直感が告げる。
主様の上に落ちないように、足を使って一生懸命に移動する。主様は大きくて避けるには難しかったものの、なんとか沈み切る前に外れまで行った。
前も後ろも分からない。間近で見上げた主様は首が痛くなるほど大きかった。真っ白く光る鱗がびっしりと生えている。ところどころ傷ついているものの痛ましいというより勇ましいと感じられる。
どちらに行こうか悩んで、適当な方に向かった。てとてとと水底を歩いても端は見えない。
「娘」
おなかの底から湧き上がるような声が聞こえた。びっくりして足を止める。きょろきょろと見渡すも、水底の民は見当たらない。抱えた交信器をぎゅっと抱きしめる。
「娘、怖がらずともよい。そちらは尻尾だ。反対を向いて来ておくれ」
「ぬし、さま?」
言われた通り逆を向いて歩きだす。砂と化した水底は歩くと靴に砂が入るし、足を取られるしで散々だった。けれど主様を待たせるわけにはいかないので少し早足で歩き続ける。
「娘、よく来た」
三度声をかけられて足を止める。どうやらこの辺りがいいらしい。ここが主様のどの辺りなのかはさっぱり分からないけれど。
「初めまして主様。お話しできて光栄の至りです」
「そうかしこまらずともよい」
「ありがとうございます」
主様の声は不思議だった。確かに低いのに、何故だか高くも感じる。女性とも男性ともつかない声。何重にも重なって聞こえる。
「シャイロックの約束を果たしに来ました」
「シャイロック……水底の子は約束を守ったのか」
「遅くなって申し訳ありません」
ずっと待っていたんだろう。シャイロックの名前を呼ぶ声が優しい。ひょっとしたら主様は、シャイロックが来たくないってことに気付いていたのかもしれない。
声で分かる。この方は聡明なお方だ。
改めて畏敬の念が膨らむのを感じる。
「娘。名はなんと?」
「フランフィールと申します」
「なぜフランフィールが来たのだ?」
この質問には少々答えに詰まった。訳が重なりすぎて、どこから話したらいいのか、どこまで話して大丈夫なのか分からないのだ。俯いてしまったフランフィールを主様はじっと待つ。
フランフィールが顔を上げる。
「少々長い話になります。どこから話したらいいのか」
「思うように話せ」
「はい。主様の美しい睡蓮が閉じたのがきっかけになります」
フランフィールは語る。
あの美しい睡蓮が水面の民にとっては祈りの場だったこと。突然閉じて中に人が閉じ込められたこと。シャイロックが首飾りを貸してくれたこと。それから、フランフィールの手の中に睡蓮宮とつながる交信器があること。
とつとつと語り終えれば、主様はひとつ唸った。
耳が聞こえなくなり、吹き飛ばされるかと思うくらいすさまじい唸りだった。
「あの睡蓮に、閉じ込めてしまっていたのか」
「わたし共が勝手に祈りの場にしていたのです、主様のせいではありません」
「いや、いや。フランフィール。そこのものと話ができるのだな」
「試してみます」
湖の精霊に祈る。睡蓮宮に伝えておくれと強く強く祈りながら、腕の中の交信器に声をかける。
「どなたか、いらっしゃいますか。湖の精霊を通して、答えていただけませんか」
しばらくの時間を置いて、交信器の中の色が緑から深い藍色へと変わる。どうやらうまくつながってくれたらしい。交信器の向こうは混乱しているようだった。珍しいことに導師が慌てている。
「フランフィール? あなた、どうしたのですか。交信器の色がいつもと違います」
「それはわたしが湖の底にいるからです」
「まあ。どうして、どうやってそんなところに」
「導師様、落ち着いて。主様よりお言葉を賜りますので、お聞きください」
今度こそ交信器の向こうはざわめきで満たされた。フランフィールはそれを無視して、主様に交信器の使い方を教える。精霊に祈りながら話しかける。たったそれだけだ。主様にとっては造作もないことだろう。
「水面の子。睡蓮の中の子たち。聞こえているか」
厳かな声に交信器が黙り込む。フランフィールもじっと主様の言葉を待った。
「我がことで汝らを巻き込んですまなかった。じき花も開こう」
花が、花びらが動いていますと交信器の向こうで騒ぐ声が聞こえた。どうやら無事に彼女たちは出て行けそうだ。
ほっとフランフィールは息を吐く。主様がお優しい方でよかったと思いながら。
「ありがとうございます、主様」
「主様。此度の温情、誠にありがたき幸せにございます。我らに落ち度があったのでしたら、何なりとお申し付けくださいませ。すぐに直します」
「よい。汝らに落ち度はない。常通り過ごせ」
ほう、と導師が息をつくのが聞こえた。この方もずっとその双肩に重いものを背負っていたのだろう。花びらが閉じた理由を水面の民は知らない。閉じ込められている間ずっとなにが悪かったのか考えていたのかもしれない。
フランフィールはつい口をはさむ。
「導師様、詳細はシャイロックが伝えに参ります。後は彼の言うとおりに」
「フランフィール、あなたは」
「恐れ多くも主様のお話し相手を勤めさせていただきます」
「分かりました。くれぐれも、よろしく頼みます」
「はい」
交信器の出番は一旦終わりだ。大業を終えて、フランフィールは急に眠気を覚えた。今日は今朝からずっと櫂を漕ぎっぱなしだった。それに、王との謁見、水底への訪問、最後には主様にまでお目通りがかなった。緊張の糸がほどけたのかもしれない。
「フランフィール。しばし眠れ」
「ありがとうございます、主様」
ありがたくも主様からの許可も出たため、フランフィールは交信器を抱えたまま砂にうずもれて眠った。何の夢も見なかった。




