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長い長い沈黙の後、シャイロックはようやく口を開いた。
「フランフィール。結婚してくれ」
「あなたと二人で主様のもとへ赴くのは素敵かも」
「いまそんな答え聞きたくない。他になにか方法が」
「できないことは言わなくていい」
扉があく。問答の時間は終わりだ。帽子をきちんとかぶり直し、襟を正す。ふわふわと浮かぶヴェールも整えた。
「シャイロック―? もういい?」
「はい。わたしが主様のところへ行きます」
「そうなの。よろしくね」
「任されました」
ラウディと呼ばれた彼に礼を言い、納屋を出る。
水底を蹴った。ふわりと浮かぶ体になれないものの、頑張って水面を目指す。
後ろからシャイロックもついてきて、追い越されて手を引かれる。水の下から見る水面はきらきらとしていて美しかった。銀色に輝くシャイロックの短い髪も。きっと水中から見る主様も美しいのだろう。
浮かぶのは沈むのに比べて時間がかかる。魚の群れとすれ違いながらフランフィールはこの新しい発見に心を躍らせた。主様に話すことが増えるのは、嬉しい。
舟に乗り込む。不思議なことに服は一切濡れていなかった。
櫂を漕ぎ、今度こそ神域の中心へと向かった。
「あのさ、さっきのこと水面の民には」
「伝えられないし、伝えない。わたしは許す、と言った」
「……伝えられない?」
「なぜ驚く」
本気で信じられないという顔をしたシャイロックを相手に、きちんと説明しなおす。ここは神域で、漁はおろか乙女たちの舟も入ることを許されない、と。
「だって王城と乙女さんは連絡がつくって」
「あれは王城と睡蓮宮だから可能。そもそもただの人がどうやって遠くへ連絡する」
「風か空気の精霊の力を借りているのかと、って王城?」
「そういう器具があるらしい」
シャイロックの顔色がだんだんよくなってくる。なにを考えているのだろう。
「それ、湖の精霊の力を借りたりできない?」
「詳しくは知らない。あの丸メガネの学者さんが知っている」
「一旦王城まで」
「戻るならシャイロックひとり。わたしは主様のもとへ赴く」
なにせもう日が傾いている。帰るにも危険だし、なにより主様のさみしさを早く癒して差し上げたかった。睡蓮宮に閉じ込められた乙女たち、レーデシェスカの顔を特によく思い出す。心がきしりと痛んだ。
「主様と話せるのは、あんたの国の民にとって幸せ?」
「きっとみな有頂天」
「そっか」
シャイロックは遠く湖岸の国の方角を見つめている。強い決心をしたらしい。
ふと気になって声をかける。
「この首飾りは壊れたりしない?」
「ああ、それは精霊の器だから。湖の精霊の力が弱まっても主様のところならすぐに次の精霊になる」
「器?」
この質問にはシャイロックは思いのほか丁寧に答えてくれた。精霊、と呼ばれるものは二つの要素が合わさってできること。
一つは精霊の器。首飾りの鱗部分にあたる。
もう一つは場の力。空気だったり風だったり湖だったり、その場所に集まる力だそうだ。
器に力がそそがれることによって精霊になり、力を使い果たすとまたただの器に戻る。器にも相性があって、入れる力と入れない力がある。
「その首飾りは精霊と持ち主が同調するようにできている。だから、湖の中でも精霊と同じように動けるようになる」
「なるほど。それで息苦しくない」
「ひょっとして、水面の民は精霊に詳しくない?」
「精霊がいることは知っている。今のような話は初めて聞いた」
丸メガネの学者にとっては当たり前のことだったりするのだろうか。ふいに世界の一端に触れて気になったものの、確かめるすべはもうない。
風の妖精になれる器があって、それに遠くと会話する機能をつければ誰でも会話できるだろうとシャイロックは続けた。王城と睡蓮宮をつなぐ連絡方法も案外そんなものなのかもしれない。
ぽつりぽつりと話をしながら、神域の真ん中へとたどり着く。舟をお願いと言えばシャイロックは顔をしかめる。次の乙女が困るんだ、と伝えればまっすぐ澄んだ瞳がこちらを見る。
「フランフィール。俺、諦めが悪い」
「知ってる」
「だから、今からでも遅くない。主様のところへ行かなくて済む方法をとろう」
「わたしはそれを望まない」
「望む人はいくらでもいる。レーデシェスカっていう乙女さんとか」
レーデシェスカの名前を出されて動揺する。日光が差し込み反射する睡蓮宮の舞台の上でくるくると回る姿を思い出す。晩ごはんが遅れたときにいつも待っていて話してくれた姿を思い出す。彼女のにこにことした笑顔が焼き付いている。
そんな彼女はいま、睡蓮宮に閉じ込められているのだ。
「レーデシェスカのためにも早く睡蓮宮を開いていただかなければ」
「焦る気持ちもわかる。でもまだ時間はあるだろう」
「ほとんどない」
「ある。その櫂を貸して。湖の精霊の力を借りる。もっと早くなる」
言うが早いか、櫂を引き上げてなにか模様を掘り始める。どくりと心臓が脈を強くする。シャイロックはなにかをひらめいた。なにをするつもりなんだろう。
「早くして、どうする」
「王城から連絡手段をかっぱらってくる」
「それじゃあ導師様たちが困る」
「困らない。主様のところへそいつを沈める。有頂天、だろ?」
「そんなこと」
「できるかどうかは確かめてからだフランフィール。おれ一人じゃここまで来られない。あんた一人じゃ帰れない。こいつは二人そろって初めてできるんだ」
紫色の瞳は強い。夕日に照らされた銀色の髪が風の精霊に遊ばれている。ひとりじゃできない、ふたりならできる。誘う言葉から子供のころ差し伸べられた手を思い出して動揺する。
「これがうまくいけば、主様がさみしくなることはこの先ずっと、ない」
この言葉は決定打だった。
フランフィールが隠していた不安。フランフィールが餓死したあと、主様がまたひとりぼっちになってしまうのでは、またさみしくなってしまうのではとずっと考えていたのだ。
この先ずっと主様がさみしくならないなんて、夢みたいじゃないか。
櫂を受け取る。漕ぐ力はいつも通りでも、進む速度があからさまに違う。水面を滑るようにフランフィールは王城へと急ぐ。
櫂を漕ぎながらシャイロックと相談した。どうやって王城に入るのか。連絡用の器具が大きかったらどうするのか。そもそもどこにあるのか。水につけても大丈夫なのか。
シャイロックもそれには迷っているらしい。なにせ見たことのないものだ。風や空気の精霊にしか対応していなかったら、改造する必要が出てくる。使い方だって知らない。
「これは賭けだ、フランフィール。俺にベットして?」
「よくわからないけれど、いまだけは信用する」
「嬉しいな。結婚しよう」
「お断り」
シャイロックが声を立てて笑った。フランフィールは内心ほっとする。
「あんたそっちのしおらしくない方がいいな。見た目と違ってまた魅力的」
「わたしはどう見えてる」
「触ったら壊れそうに見える」
これにはフランフィールも不服で、つい櫂でシャイロックの肩を叩いた。
王城まではあと少し。日は完全に暮れてしまった。




