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どれくらい沈んだのだろう。
シャイロックは泳ぐのをやめて自由落下に任せている。手をつないでいるフランフィールもゆっくりと沈んでいく感覚を味わっていた。これを、また行うのだ。慣れなくては。
「シャイロック。あなたはなぜ平気」
「俺たちは湖の精霊と相性がいいから」
「おれたち?」
「着いたら説明する」
水底が見えてくる。一面の緑の中に道があった。ところどころに白い何かがつる下がっていて、畑や道を照らしている。足元には白い花々が咲き誇っていた。シャイロックがまた少し泳ぎ、道に降りるように調整する。
「あれは水中花の畑。踏んだらダメになるからな」
水底にも花は咲くのか。フランフィールは驚いて声も出ない。
道に降りて、シャイロックが先導するのについていく。手は離してくれなかった。
水底に来たのは初めてだ。フランフィールはあたりを見渡す。
緑だと思っていたものは水草が育てられているらしい。背の高いものから水底に沈んでいるものまでさまざまだ。その間には魚たちが悠々と泳ぎまわり、小さな生き物が畑の隅に家を作っている。
ところどころ違うものの、湖岸の国にある畑と似ていた。
あちらこちらに視線を動かしながら歩いていると、遠くに町が見えた。木の壁と木の枝で作られた屋根。まったく見たことのない建物だ。
やっぱり白く光る何かがつるされている。
ここが湖岸の国とは違う誰かの生活圏だということがようやく実感として沸いてくる。
シャイロックは注意深く左右を見渡していた。なにかを警戒しているらしい。不思議に思いながらもついていく。聞かなければいけない話があるのだから。
誰かを見つけたのだろう。左手を上げて彼は静かに声をかけた。
「ラウディ。ちょっといいか」
「シャイロック? お前なんでここにいるんだよ」
「説明する」
「後ろの子、だれ? 見たことない格好してる」
「それも説明する。納屋貸してくれ」
薄水色の髪の青年は頷いて、家より一回り小さな建物に案内してくれた。中には農作業用の道具らしきものが乱雑に散らばっており、真ん中には小さなテーブルと何脚かの椅子があった。
納屋というより秘密基地のようだ。
「オレお前がとっくに主様のところへ行ってるかと思った」
「……水面の国に居た」
「それで主様さみしそうなのな。いい加減にしろよ」
「それは、」
ラウディと呼ばれた青年とシャイロックはフランフィールを置いてけぼりにして話を進める。フランフィールに理解できたのは主様がさみしい、というところだけだ。
「で、お嬢さんは?」
「水面の民。主様のところへ行くつもりだ」
「なんだ、代わりの子見つけてきたの。よかったじゃん」
「よくない!」
「シャイロック?」
主様のところへ行く。代わりの子。話の流れで分かってしまった。フランフィールがやろうとしていたことは、もともとシャイロックのやるべきことだったらしい。それをせずに湖岸の国にいた、と。
なんだ。フランフィールは安心した。話を聞いてもきっとやることに変わりない。
「悪いラウディ。この子は何も知らないんだ。今はちょっと席を外してくれ」
「いいけどさ、シャイロック。もう逃げるのはなしだよ」
「分かってる」
「ならいい。お前は自分の約束を果たさなきゃいけないんだからな」
帰ってきていることは内緒にしてくれとシャイロックが懇願して、ラウディはあっさりと頷いた。どちらにせよ早くと急かす言葉だけを残して。
「あの、フランフィール」
「シャイロック。あなたの罪を許します」
いつかの言葉をなぞる。シャイロックは息をのんだ。身をすくめて、全身でなんでと投げかけている。
「あなたが、本当は、主様のもとへ赴く係だったんだ」
察した言葉を伝えれば彼はうなだれた。フランフィールは静かにそれを受け止める。怒りはわいてこない。シャイロックには似合わない係だな、とだけ思った。このさみしがりの人懐っこい人にはきっと向かない。陽の光を浴びて笑っている方がずっと似合っている。
「主様にむかし誓ったんだ。あなたがさみしくならないようにするって」
左手の包帯をほどいていく。そこに刻まれたのはピンク色の睡蓮の文様。色合いが角度によって違って見える。幾何学模様に睡蓮の編み込まれた美しい文様だった。
それは、主様との契約の証。
それは、主様に求められた証。
フランフィールはシャイロックが少し羨ましくなる。
「主様はいつも一人でさみしそうにしているから、小さい俺は何も考えずにさみしいのが吹き飛ぶようになればいいと思って言った。契約になるなんて考えもしなかった」
「よくあること?」
「稀にあったらしい。主様の住処で、主様とずっと一緒にいるお役目。まさか自分がそうなるなんて思いもしなかったんだ」
苦しそうにシャイロックは続ける。お役目に選ばれてからは、自由にさせてもらったこと。20を過ぎてからいつ主様のところへ行くのかと国中から急かされていたこと。
「お役目なんて辞められるって軽く考えてた。でも周りの目がどんどん本気になっていくんだ。いつ主様のところへ行くのか。あの方のさみしさを癒して差し上げるのか。聞かれるたびに俺、怖くて哀しくて。主様のところへ行くのが恐ろしくなって」
そうして逃げた。彼を知らない人のところへ。彼らの言うところの水面の国へ。
「水面の民があんなにも主様を好きだなんて知らなかった。声も聞こえないし、姿だってほんとたまにしか見れないって言っているのに。晴れたら主様の機嫌がいい、雨なら主様の恵み。子供だって主様の話を楽しそうにしている。生活に主様が根付いていて、それが温かいからすっかり忘れていたんだ。主様がさみしがっていること」
「主様は、さみしい」
「そう。睡蓮宮が閉じたとき真っ先にそれに思い至った。でも言えなかった。水面の民からも主様のところへ行けと言われたら、今度こそどうしようもなくなるから」
顔を覆ってシャイロックの懺悔は続く。ずっと騙していてごめんなさい、お役目から逃げていてごめんなさい。フランフィールはじっとそれに耳を傾けた。
「あなたの罪を許します、シャイロック。そのお役目はわたしに頂戴」
「フランフィール」
シャイロックはもう泣きそうだ。でも、フランフィールも引けない。睡蓮宮が閉じた原因は分かった。なら後はそれを解消するだけだ。敬愛する主様のもとへ赴けるなら、光栄。それは本音だった。
「わたし、孤児だから。悲しむ人は少ない」
「俺がかなしい」
「ありがとう。でも、主様のところで居られるならわたし、幸せ」
きっと主様の元でかなしみを癒すお役目はフランフィールには苦痛じゃない。主様は美しくて偉大で、フランフィールの生きる希望なのだから。
シャイロックがかなしいと言ってくれた、それだけでも嬉しい。
「どうしてそこまで」
「孤児のわたしが、口下手で愛想のないわたしがあの国に馴染めたのは主様のお陰。いつだって話すことは主様のことで、それが好き。それだけ。でも、それがすべて」
「フランフィールの未来は」
「子供のころから決めていた。主様のために一生を捧げると。あなたのお役目は、そういうことでしょう? なら恐れることなんてひとつもない」
シャイロックが絶句してしまう。
ふと、ここに来てから彼が悲痛な顔ばかりしているのが気になった。よく笑い、よく拗ね、よく表情の変わるシャイロックのそんな姿は似合わない。
「笑って、シャイロック。そしたらわたしさみしくない」
「無茶言うな」
「花冠、嬉しかった。お礼言えてなくてごめん」
「やめろフランフィール。頼むからちゃんと生きて、生きてくれ」
「この首飾り貰ってもいい? 大事にする」
「そんなことのためにここに君を呼んだんじゃない!」
フランフィールは静かに口の端を上げる。シャイロックは眉尻を下げて、両手をフランフィールへと差し出す。その手は取れない。
シャイロックの顔に浮かんだのは罪悪感だろうか、自責だろうか、絶望だろうか。苦悩する彼を救うすべを、フランフィールは知らない。




